第82話 帝国
帝国は、力と実力を重んじる国家である。貴族といえど、生まれ持つスキルに恵まれず、なおかつそれを鍛え上げる努力を怠る者に、出世の道はない。
だが──
この国の根底に流れる価値観は、スキル至上主義とは一線を画している。帝国においてスキルとは、あくまで“道具の一つ”に過ぎず、評価されるのは“戦場で何を成したか”ただそれだけである。王国で言えば、辺境伯爵ギルベルトがこの思想に近いだろう。
「スキルに甘えるな。戦場で通じるのは、研ぎ澄まされた技と胆力だ」
これは帝国士官学校の第一教訓であり、実戦を生き抜く者たちの常識である。
帝国の社会は、あらゆる階級において「結果」がすべてを決める。
スキルはあくまで補助的手段。神の祝福ではなく、人が扱う武器の一つに過ぎない。武術大会ではスキルを封じた「素手試合」や「剣術戦」が主流。勝敗は軍の配属や階級に直結する。
スキルを持たぬ者も、実戦と鍛錬を積めば高位へと昇ることができる。この実力主義が兵たちに強い忠誠心と誇りを植え付け、敗北を許さぬ強靭な精神を育てている。
帝国軍の昇進は、「戦技官」と呼ばれる教官による実力査定によって厳正に決まる。任官試験においても問われるのは、スキルの種類や等級ではなく、「どれだけ多くの敵を倒せるか」という一点である。
戦技官は、兵士の技量と胆力を見抜き、その可能性を引き出す専門家でもある。彼らの眼にかなわぬ者は、どれほど高貴な血筋であっても、前線にすら立てない。
帝国の諜報機関〈灰色の眼〉は、実力主義の極致とも言える組織であり、採用条件にスキルの有無は一切問わない。むしろ気配を断ち、沈黙を貫き、影に溶ける技術を極めた者こそが重用される。
その者たちは〈影の刃〉と呼ばれ、王国や聖教国の奥深くにまで潜入し、破壊・情報収集・暗殺などを担っている。彼らの存在は公にはされないが、帝国が他国よりも常に一手先を読んで動ける理由の一端がここにある。
聖教国が「神より授かるスキルこそが人を導く」と信じるのに対し、帝国は「神に頼らずとも、人の技術と意志で未来を拓ける」と信じて疑わない。
彼らの思想の根底には、“神を超えんとする人間の意志”がある。それ故、帝国では“技術による神殺し”を視野に入れた極秘計画すら進められているとも言われる。
帝国は、神の祝福によらずして生き、戦い、勝つことを選んだ者たちの国である。そしてその思想は、聖教国の信仰社会にとって最大の脅威となるのだった。
◆
重厚な黒鋼の扉が静かに閉じられると、会議室は息を潜めたような沈黙に包まれた。長い楕円形の石卓の周囲には、帝国軍の最高幹部たち──六人の将軍と宰相が着席している。
壁際には、〈灰色の眼〉の紋章を刻んだローブの人物が一人、厳しい表情で立っていた。彼の名はヴィド・アストリア。帝国内でも数少ない、スキルを持たぬままに諜報局副長まで昇り詰めた男である。
「──王国より、定時報告を持ち帰りました」
ヴィドは巻物を差し出し、参謀が受け取る。中身に目を通すと、参謀は低い声で要点を読み上げた。
「報告番号第七八一号。
・王国において〈暗黒騎士〉と称される存在が出現。
・複数の地方都市、砦及び補給路を襲撃し、いずれも短時間で壊滅させている。
・現地の騎士団および魔法師団が追跡を開始するも、捕捉には至らず。
・外見・スキル・動機・所属、すべて不明。唯一確認されたのは“漆黒の鎧と異形の剣”。
・王国貴族の一部では、旧時代の呪詛か、邪神の使徒との噂が流布されつつある」
報告を聞いた将軍の一人──銀髪の戦技官上がり、オリクが鼻を鳴らした。
「神の加護に縋ってばかりいるから、こうなる。姿も見えぬ敵に振り回されるとは、嘆かわしい話だ」
重々しく頷く者もいれば、顎に手を添えて沈思する者もいた。
「〈暗黒騎士〉……正体が掴めぬ以上、我らが直接介入する理由はない。が──」
宰相カールが視線を巡らせる。
「王国の騎士団戦力が削がれるのは好機だ。特に、東部方面軍が動けぬのは我らに利する」
「となれば、我らがするべきは一つ」
宰相は静かに言った。
「風の向きを見極め、先に動くことだ」
会議室の空気がわずかに動いた。誰もが無言のまま、次なる命令を待っていた。
そして、誰もが気付いていた。
この〈暗黒騎士〉という異分子が、帝国の未来にどれほどの波紋をもたらすのか──
それを読み切ることが、次の戦争の鍵になるのだと。
◆
数日後、帝国軍最高幹部たちが再び集まり、石卓を囲んだ。〈灰色の眼〉副長ヴィド・アストリアが慎重な口調で報告を始める。
「王国騎士団からの最新情報です。〈暗黒騎士〉は一騎打ちの末に撃退されました」
ヴィドが巻物を広げて続ける。
「興味深いのは、その〈暗黒騎士〉を退けた剣士です。名はレオン。弱冠十五歳の少年ですが、彼の者はスキルを持たぬ者ながら、〈剣聖〉ギルベルト・ヴァルツェン以上の実力を持つと噂されています」
ヴァレン・シュトルムが眉をひそめ、声を低めた。
「スキルなしで〈剣聖〉以上の実力……それが真実なら、ただ事ではないな」
「加えて、〈暗黒騎士〉の左腕を一閃で切り落としたとのこと。傷は深く、〈暗黒騎士〉は撤退、その後の行方は掴めていません」
宰相が鋭く視線を巡らせる。
「これにより、〈暗黒騎士〉の能力と正体に新たな疑念が生じました。彼の戦闘力は単なるスキル依存ではない可能性が高い」
ヴィドが静かに言葉を継ぐ。
「帝国の戦略にとって重要な意味を持つでしょう。『レオン』という存在をどう扱うか、慎重な対応が求められます」
会議室に緊張が走る。
〈暗黒騎士〉と『レオン』という二つの謎が、帝国の次の動きを一層難解にしていることを、誰もが感じていた。
ヴィドの言葉が終わると、重厚な扉が再び開き、帝国皇帝ダリウス・ヴァルディールが静かに入室した。
威厳に満ちたその姿に、将軍たちは一瞬身を正す。
「……その“レオン”という剣士か」
皇帝は巻物に目を落とし、低い声で呟いた。
「スキルを持たぬ者が、〈剣聖〉以上の実力とはな。実に興味深い」
彼はゆっくりと顔を上げ、重々しく言った。
「我々が知り得る限りのあらゆる手段を使い、彼に関する詳しい情報を収集せよ。出自、能力、思想、可能な接触経路、全てだ」
宰相がすぐさま応じた。
「陛下の御意。直ちに〈灰色の眼〉に命じ、王国内外の情報網を総動員いたします」
皇帝は微かに微笑んだ。
「我々の未来を左右しかねぬ存在かもしれぬ。油断なく、動け」
その言葉に、会議室は再び緊張感に包まれた。
今や「レオン」という名は、帝国の運命にも新たな波紋を刻み始めていた。




