第76話 弔い
騎士団は追撃を断念し、ひとまず砦の中へと入った。荒れ果てた戦場の空気はまだ重く、至る所に倒れ伏した兵士たちの姿があった。
負傷者たちは急ぎ手当てを受け、戦の疲れが砦にひっそりと染み込んでいく。治療場ではレティシアが冷静な手つきで包帯を巻き、傷口を洗い清めていた。
騎士団長がレオンに歩み寄り、低い声で深く頭を垂れる。
「レオン殿……今回の戦いでの助力には、心より感謝する。君の力なくしては、この砦の奪還は難しかっただろう」
レオンは黙したまま、わずかに頷いた。その瞳は、戦場に散った者たちを見つめている。
やがて日が沈み、砦は闇に包まれた。焚き火の明かりだけが、夜の静けさをかき消すように揺れている。そんな中、レオンがぽつりと口を開いた。
「……死者をこのままにしておくわけにはいかない。せめて、安らかに眠れるよう、埋葬しよう」
その声は低く、だがはっきりとしていた。誰も異を唱える者はいない。沈痛な面持ちで、騎士たちは黙って頷いた。
「……ああ、それが良い」
「明日、皆でやろう」
誰かがぽつりと呟き、焚き火のはぜる音だけが夜気に溶けた。
夜が明けると、砦の中には重苦しい沈黙が漂った。
静かに、死者たちの埋葬が始まる。
レティシアは大地の精霊に祈りを捧げ、柔らかな光とともに土を掘り起こす。その隣で、 レオンをはじめ騎士たちが、一人、また一人と遺体を運び、丁寧にその身を土に戻していった。手を止める者はいない。ただ黙々と、慎重に、深い悲しみを胸に秘めて。
「……お前たちの犠牲は、無駄にはしない」
老騎士の一人が、土をかけながらそう呟いた。その声は震えていたが、誰も彼を咎めなかった。
だが、その中でただ一人、ラグナルだけは別だった。
王子は遠くの石壁に背を預け、腕を組んだまま、誰の手伝いにも加わらず、不機嫌さを隠そうともしない。
その瞳は、冷たく、どこか虚ろな光を湛えていた。
(……なぜだ。なぜ、王子たるこの俺が、あんな奴に無視され、俺だけが無様に転がされねばならん……)
胸の奥を焼くような屈辱が、何度も何度も蘇る。
エリオット──〈暗黒騎士〉は、自分を見向きもせず、あのレオンは自分の前では決して見せなかった力で、あっさりと敵を圧倒してみせた。
(あの時、奴は本気を隠していた。俺との戦いなど、最初から取るに足らない遊びに過ぎなかったとでもいうのか……舐めやがって……!)
握りしめた拳は白くなるほど強張り、唇は無意識に噛み締められていた。
(それに……王子たるこの俺が、土いじりだと? そんなこと王子がする必要はない。死者の埋葬など、下賤な民や騎士どもの役目だ……さっさと終わらせろ)
そう心の中で吐き捨てながらも、どこかで自分自身が惨めに見えてならなかった。
一方、その様子を見ていた騎士団長の胸にも、複雑な思いが渦巻いていた。
(……これを、王にどう報告するべきか……)
敵──〈暗黒騎士〉の正体。レオンの圧倒的な力。王子の醜態。集団行動において最も重要な協調性の欠如。
下手に報告すれば、王家の権威を揺るがしかねない。だが、事実を隠しても、いずれ噂は広まるだろう。
(……どうあれ、王子殿下のこの態度は、もはや誤魔化しようもないが……)
一度は悩み、目を閉じる。
だが──次の瞬間、彼は静かに心を定めた。
(……いいや、誤魔化すつもりはない。すべてを、ありのままに報告する。それが、私の務めだ)
どのような判断を王が下そうとも、それは王の責務。
自分は、あくまでその命に忠実に従うのみだ。
(私は騎士なのだ。剣に生き、忠義に殉ずる者……王がどう裁こうと、私のなすべきことは変わらぬ)
その瞳に、一切の迷いはなかった。
「……王子殿下は何を考えているのやら。だがあの有様じゃ、いっそ呆れるしかないな」
「埋葬くらい、手伝っても罰は当たらんだろうに……」
「何のために戦って死んだと思ってるんだ……」
「死者の弔いもせずに……これでは、死んでいった者たちも浮かばれないよな……」
埋葬の合間に、騎士たちは低い声で不満を漏らした。誰も大きな声では言わないが、王子への失望と苛立ちの色は隠しきれなかった。
レオンもまた、土をかける手を止め、静かにラグナルの姿を見やった。
そして、胸の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じる。
(周囲がいくら気を遣っても……あれでは、孤立するのは当然だ。何を背負っているのか知らないが……今のままでは、誰もついてこない)
内心でそう思いながらも、レオンは再び無言で土をかける。
この場に必要なのは言葉ではなく、静かなる祈りだけだと悟っていたから。
(馬鹿王子のことなど放っておけばいい……)
やがて埋葬は終わり、一行が砦を後にしようとしたその時、レティシアが静かに立ち止まり、墓標の前に進み出る。
「あなたたちの旅路が、どうか穏やかでありますように。戦火に斃れた魂よ、大地に還り、精霊の導きのもと安らかに眠りにつかれますように……」
その言葉とともに、レティシアは両手をかざす。瞬間、空気がやわらかく震え、彼女の周囲に光の精霊たちが現れる。無数の粒となった暖かな光が、墓標の上空にふわりと舞い上がり、静かに降り注いだ。まるで陽だまりのようなその光に照らされ、土に還った者たちの魂が、確かに慰められていくかのようだった。
小さな祈りの灯火が消えたあと、一行は静かに砦を後にした。
灰色の空の下、重苦しい空気のまま、彼らはゆっくりと王都へ向けて歩き始める。
砦の門が遠ざかるほどに、その背には、戦場の痛ましい匂いだけがいつまでもまとわりついていた。




