第72話 戦の前
──そして後日。再び謁見の間へ呼び出されたレオンは、王の要請を改めて受ける。
〈暗黒騎士〉討伐への協力を求められたレオンは、何の感情も表に出さず、淡々と頷いた。
「承知しました」
王も、宰相も、安堵の表情を浮かべる。
「期待しているぞ、レオン。そなたの力でこの戦に勝利すれば、王国の威信は大いに高まろう」
「華々しい戦功を挙げた暁には、しかるべき褒美を取らせるつもりです。爵位の叙任も視野に入れております」
「国中が注目している。そなたの戦功は、広く語り継がれるだろう。凱旋の暁には、大広間で盛大な叙勲式を開くとしよう」
「ふさわしい褒美も用意する。爵位も、領地も、望むものを選ぶがよい」
次々と投げかけられる“恩恵”の列挙に、レオンはほんのわずかに眉をひそめた。
(……なるほど。そういうことか)
先日の謁見で怒りを露わにした自分を、どうにか懐柔しようという魂胆──
王も宰相も、あの場の空気を忘れてはいなかったのだろう。
だからこそ、こうして甘言を並べて「褒美」という名の鎖を差し出してきた。
(相変わらずだな……どれだけ言葉を尽くそうと、何も変わっていない)
虚飾にまみれた言葉。己を“使う”ことしか考えぬ者たちの、変わらぬ本音。
民の痛みではなく、王家の威信。
燃え尽きた村の焼け跡ではなく、盛大な式典。
自分の剣が守った命よりも、掲げられる勲章と、列席者の拍手の数を気にする者たち。
(くだらぬ式典など開く予算があるなら、焼け出された村、凍える子供や飢える老人に回してやれ。あれだけ現地の惨状を耳にしておきながら、まだ気付かんのか)
褒美や名誉で人の心が動くと信じて疑わぬその姿勢に、もはや呆れを通り越して、乾いた諦念すら覚える。
(結局こいつらは、自分のことしか見えていない)
静かに頭を垂れたその男の瞳は、誰にも見えぬまま、ただ静かに冷えていた。
(言われなくてもやるさ。だが、王家の威信のためじゃない。民のために、だ)
◆
数日後、城の石造りの庭園には、爽やかな朝の光が差し込んでいた。
二人とも、次の討伐戦への協力を求められ、城で待機していた。ただ待つのも芸がない。レオンは剣を手に、ひたすら繰り返される基本の動作に集中していた。鋭い一閃が空気を切り裂く。彼の表情は真剣そのものだ。
その脇では、レティシアが薬草を丁寧に扱いながら、静かに治療薬を調合している。彼女の動きは緩やかだが確かで、レオンの疲労を和らげる薬を一つ一つ丹念に作っていた。
「よくやるねー、レオン。少し休んだら?」
レティシアの声は優しく、しかし励ますように響く。
レオンは軽く頷いた。
「分かっているよ。でも、剣の腕を鈍らせるわけにはいかないからね」
その言葉に、レティシアは微笑みながらも、心配そうに彼の身体を気遣っていた。
「ほどほどにね」
「ああ、もう少ししたら終わりにする」
一方、玉座の間では王アルヴァン四世と宰相が、絹のように静かな声で言葉を交わしていた。
「〈暗黒騎士〉の動きが活発になっている以上、次の戦いは避けられぬ」
王は遠くを見つめるように、重々しい声で言った。
宰相は恭しく頷きながらも、言葉の選び方には慎重だった。
「第一王子殿下の怪我もほぼ癒えられました。いまだ謹慎中の身ではありますが、いかがいたしましょうか? グレイフォード公爵からは、今度の戦には特別に指揮を執らせてもよろしいのではないか、と打診がきております」
「……あやつか。王子の後ろ盾である以上、当然の申し出だな」
王は短く息を吐くと、背凭れに寄りかかって言葉を続けた。
「だが、ここでラグナルに軍を任すわけにはいかぬ。それでは謹慎させた意味がなくなる。ラグナルのためにもならん」
宰相もその判断には同意の意を示しながら、静かに提案を重ねた。
「では、指揮権を与えぬ同行、というのはいかがでしょう? 戦場の空気に触れることは殿下にとっても重要です。兵を率いるのは騎士団長が務めますが、この度はレオン殿とレティシア殿の協力も得られることですし、殿下も何かしら得るものもあろうかと」
「うむ……」
王は一拍置き、考えを巡らせる仕草を見せた。
ほんの数日前、自らの言葉に対し、レオンがどれほど冷たく、突き放すように応じたか──その場にいた者であれば、忘れようにも忘れられないはずだった。
だが今、王と宰相の言葉の端々には、その冷たい視線も、突きつけられた失望も、まるで霧のように薄れていた。
(……あの様子では断られるかと思ったが、まずは一安心か)
王はようやく決断を口にした。
「よかろう。ラグナルには従軍のみ許可し、指揮は一切任せぬ。レオンの戦いぶりを目にすることで、あやつも己の未熟を省みることがあるかもしれん」
宰相は深く頷くと、落ち着いた口調で答える。
「その通りでございます、陛下。王家の威信を取り戻すためにも、殿下の心境の変化を期待したいものです」
その言葉には、どこか“都合のよい希望”ばかりが見え隠れしていた。
レオンの怒り。
彼が王に向けた冷笑にも似た視線。
それらはもはや、二人の意識の中では、扱いづらい過去として意図的に棚上げされつつあった。
都合の悪い現実は、やがて“忘却”の帳に包まれる。
王と宰相の脳裏には、今や「従ってくれる英雄」としてのレオンしか映っていなかった。
窓の外、遠くに広がる戦場の影が、夕暮れに淡く滲んでいた。
その背後で、次なる戦いの厳しさが、確かに、だが静かに迫っていた。
◆
城の使者が息を切らして玉座の間へ駆け込んだ。
「陛下、南部の砦に〈暗黒騎士〉の姿が確認されました! 兵は既に警戒態勢を敷いております!」
その言葉に、王アルヴァン四世の顔色が一変した。
「来たか……」
重苦しい沈黙の後、グレイフォード公爵が意見を述べる。
「騎士団は既に出陣の準備を整えて待機しております。この度は、ぜひ第一王子殿下にも騎士団に加わっていただければと」
王は重々しく頷いた。
「よかろう。だが第一王子には、あくまでも帯同であることを厳命する。独断専行は絶対に許さぬ。騎士団長の指揮に従い、己の立場をわきまえるよう伝えよ」
第一王子ラグナルはその言葉を聞き、表向きは素直に了承の意を示した。
「承知した」
だがその胸中は別だった。
(俺は王子だ。軍の指揮を仰ぐなど、屈辱以外の何物でもない……)
己が王家の血筋を誇りに思い、深い傲慢さが心に渦巻いていた。
遠く砦に向けて、出陣の時は迫っていた。




