第71話 様々な思惑
レオンの言葉を聞いた瞬間、アドラス侯爵は全身に冷や水を浴びせられたような感覚に襲われた。
言葉自体は静かだった。怒号も、嘲笑もない。だが、それがかえって恐ろしかった。
(……あの目は、完全に見限っておる)
レオン──。
“持たざる者”ゆえにすべてから見捨てられ、己の力のみで這い上がり、今や王国でも屈指の実力を誇る剣士。
だが、真に恐るべきはその剣ではない。あの男は、ただの兵ではない。見ているのだ。この国の“本質”を。腐臭を放つ政治の中枢を。
(王よ……この若者を、今しがた完全に敵に回したかもしれませぬぞ)
アドラス侯爵は、表情一つ動かさず、静かに周囲の空気を観察した。
動揺を隠せず、眼を逸らす宰相。うつむく将軍。言葉を失った侍従長。
皆、己が罪を指摘されたわけではないのに、なぜか胸に疚しさを抱いている。
──それもそのはずだ。
この場にいる誰もが、王が事実を隠していたなどとは、夢にも思っていなかった。
信頼していたはずの王が、何より重大な真実を、誰にも告げずにいたなどと──。
沈黙は、共犯によるものではなかった。ただの無知と無防備。その事実が、レオンの言葉によって初めて突きつけられたのだ。
まるで、胸元に突き立てられた刃のように。動揺と困惑が、謁見の間の空気を凍りつかせた。
(……あの視線は、まるで人の良心に直接突き立てる刃だ)
侯爵はふと、レオンの言葉の一つ一つを反芻する。
“王国からの支援を受ける、下賤な存在のくせに”──その言葉の浅ましさを、迷いなく公衆の面前で断じた若者。
王にも、若手貴族にも、そしてこの王国の空気そのものにも、怯まず諫言したあの態度。
それは、もはや勇気ではない。信念だった。ああ──敬服する他にない。
あの場にいて、あのようなことが言える人間が、この王国にどれほどいる? いや、我が息子であっても、私自身であっても……到底できぬことだ。
私は侯爵などという地位にいながら、何をしてきた?
何も変えなかった。変えようともしなかった。
自分にできることなど限られていると、言い訳をして──
そして今日もまた、黙して座っていた。
(……私のようなものは、もうさっさと隠居すべきなのだろうな)
それが、静かに胸の奥で滲んだ自嘲だった。
この国の未来を握るはずの男を、王と重臣たちは──自ら遠ざけつつある。
それが、どれほどの損失かに気付いている者は、今、どれほどいるのだろうか。
◆
重々しい扉が静かに閉じられると、王は一人、執務室の静寂に包まれた。
豪奢な椅子に腰を下ろす間もなく、彼は深く息を吐き、額を押さえる。
レオンの声──いや、怒りに満ちた剣のような言葉が、いまだ耳から離れない。
王家、そして貴族への糾弾。
それは単なる批判ではなかった。正義の名を借りた攻撃でもなかった。
むしろ、真実を突きつけられた痛みそのものだった。
(……隠すつもりなど、なかったのだ)
王は、あの報告を思い返す。
辺境伯爵ギルベルトからの書簡。
〈暗黒騎士〉の出現と、それによる村の壊滅。避難民の受け入れを拒否した街の守備隊。直轄領であるにもかかわらず、王都からの支援の遅れ。
そのことに対する、辺境伯爵からの正式な抗議と諫言。
確かに深刻な事態ではあった。だが、即座に国家方針を左右するほどのものとは考えていなかったのも、また事実だった。
他に急を要する問題が山積していた。
王都防衛の再編、戦力の再配置、補給路の確保──〈暗黒騎士〉の襲来が現実味を帯びる中で、王として為すべきことは山積していた。
辺境伯ギルベルトからの書簡も、その中に埋もれてしまったのだ。放置するつもりなど毛頭なかった。ただ、優先順位の中で後回しにした──いや、そうせざるを得なかった。
だが、それが結果として、あのレオンをあれほどまでに怒らせるとは。
(……まさか、あれほどの怒気を私に向けてくるとはな)
レオンのあの目は、明らかに怒っていた。いや、怒りというより……軽蔑。
(無礼な奴だ。だが──奴の機嫌を損ねたのも事実。これはまずいな……)
胸の奥に、鈍い不安が湧く。
今、〈暗黒騎士〉討伐を控えたこの局面で、レオンの力は不可欠だ。
だが果たして、彼は王命に従うだろうか──いや、そもそも、自分にまだ“協力する価値がある”と見ているのか。
確信は、なかった。
ただ、祈るようにその名を心の内で呼ぶしか、今の王にはできなかった。
◆
王城を出た直後の石畳の道は、人通りも少なく、ひどく静かだった。
レオンは足を止め、王城を振り返ることもなく、そのまま立ち尽くしている。
レオンは、微かに眉を寄せたまま、無言で空を見上げる。
やがて、低く、静かに呟いた。
「兄は、自分の名誉を取り戻すために。弟は、兄の失態の間に己の功績を稼ぐために……」
「え?」
「結局、どいつもこいつも、自分のためにしか動いてないんだな」
吐き捨てるような声だった。
レティシアは少し驚き、だが彼の横顔から目を離さずに耳を傾ける。
「民のため、だなんて綺麗事を並べるが……あいつらにとっては、それすら“自分の栄達のための材料”に過ぎない。村の復興だって、俺たちが動かなければ、いまだに何一つ進んでなかったはずだ」
「……」
「第二王子が支援に乗り出したのも、俺たちが先に動いたからにすぎない。まるで最初から計画していたかのように、後から堂々と“正義”を装って乗っかってきただけだ」
淡々とした口調だったが、その奥に潜むのは冷えた諦め、そして抑えきれぬ怒り。
「討伐隊が大事なのは当然だ。だが、だからって復興支援を後回しにしていいわけがない。どちらも同時に動かせるはずなんだ。──それをしないのは、結局、民を本気で守ろうなんて思ってないからだ」
レティシアは、言葉を失った。
だが、レオンの言葉はまだ止まらない。
「一人……これだけの貴族がいる中で、辺境伯爵ただ一人だぞ……。自ら動いてくれたのは」
「……つくづく、貴族や王族なんていう生き物は、嫌になる」
その最後の一言は、静かに吐き捨てるようだった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、レティシアはそっとレオンの袖を掴んだ。
「……でも、レオンは違う」
レオンは振り返らない。
「あたしは、ちゃんと見てた。レオンは、自分のためじゃなくて、本当に村の人たちのために動いた。あの人たちも、レオンのことを心から感謝してた……あたしも、そう思ってる」
まっすぐな声だった。飾りも打算もない、ひたむきな思い。
レオンは、ふっと小さく笑う。
「……ああ、知ってるよ。だから……せめて、ああいった人々のためにだけは、俺は動ける。それで十分だ」
──王も、貴族も信じることはない。だから、己の手で救えるもののためだけに、剣を振るう。その覚悟だけは、誰にも踏み込ませはしない。
そう心に刻みながら、レオンは王都の石畳を静かに歩いていった。
彼の背は、やはり孤高で、けれどほんの少しだけ、重荷が和らいだようにも見えた。
──その背を、レティシアはじっと見つめながら、そっと胸の内で呟く。
(……レオンの孤独は、あたしがちゃんと知ってるから)
そして、誰よりも冷えた心を抱えながら、それでも歩みを止めない彼を、黙って追いかけていった。




