第68話 勧誘
その日の午後、ユリウスは密かに一人の男を呼び寄せていた。
王都の政庁でも有数の実力者──ライエン侯爵、王都貴族たちのまとめ役とも言われる老練な貴族である。
「──要件は、承知しております」
侯爵は、静かに頭を垂れた。その態度に、ユリウスは満足げに微笑む。
「さすがだな、ならば話は早い。……例の──レオンへの接触だ」
「左様。殿下がご意図されることは、十分に理解しております」
侯爵は冷静に答えた。
彼もまた、王都の政局を読み切る男だ。
ラグナルとレオンの確執は既に明白。ならば、第二王子が先に動くのは当然だった。
「私の名前を表に出す必要はない。……貴族としての矜持を示す機会を与える、そう装ってほしい」
「心得ております」
侯爵は、わずかに口角を上げる。
「適任が、おりますゆえ。若く、顔も立つ。王都の社交界でも名を知られた、野心ある青年でございます」
「ほう……?」
「我が縁戚にあたる男でしてな。賭け事に長け、駆け引きの勘も鋭い。しかも、礼節を弁えた好人物。……レオン殿のような実直な方には、好印象を持たれやすいでしょう」
「なるほど。巧妙だな、侯爵」
ユリウスは満足そうに目を細めた。
「……条件は?」
「ふむ。それなりの魅力は必要でしょうな。地位、名誉、金、そして……人。彼には、与えるのではなく、選べるように整えさせます。武勲を立てた者にふさわしい“褒美”を、好きなだけ選べるようにと」
「露骨だが、効果的だ。……構わぬ。レオンは、武人に漏れることなく、己の矜持を重んじる男だろう。だが、人の心は状況次第でいくらでも動く。甘言を拒んでも、周囲が味方すれば、いずれ立場は変わる」
「承知つかまつりました。では、速やかに若手を動かしましょう」
「……慎重にな。王都の目も耳も、我々の動きには敏い。あくまで“侯爵家の厚意”として、私の名前は出さずに、さりげなく進めよ」
「無論です。すべては、殿下の御心に背かぬように」
侯爵は静かに頭を垂れる。
だがその瞳には、冷たい計算と野心の光が滲んでいた。
◆
──それから数日後。侯爵邸の一室。
華やかな絨毯と調度品に囲まれた室内で、侯爵は一人の青年貴族を呼び寄せていた。
「……用件は、わかるか?」
「はい、伯父上。例の“辺境の英雄”……レオン殿への接触、ですね」
青年は、柔和な笑みを浮かべながらも、その目は鋭く光る。
名をエルネストと言う、この男は、若くして侯爵家の縁戚として王都の社交界に名を馳せた、したたかな策士である。
「余計なことは申さぬ。お前に求めるのは、彼をこちら側へ引き寄せること。……そのための手段は、すべてお前に任せる」
「──心得ました。彼には、まず“選択肢”を与えるのが肝要ですね」
「その通りだ。こちらから押し付けるのではなく、選ばせる。あくまで己の意志で歩み寄ったと、思わせねばならん」
「準備は整っております。彼の好みに合わせ、様々な“褒美”を用意します。最初は慎ましく、徐々に踏み込めば……断ち切るのは難しくなるでしょう」
「ふん……見込み通りだ」
侯爵は満足げに頷いた。
「肝に銘じておけ。これは第二王子殿下の御意志だ。失敗は許されぬ。──それと、“奴”に警戒心を抱かせるな。まだこちらの本意は隠しておけ」
「承知しました。……必ずや、彼を“こちら側”へ」
エルネストの声は低く、どこか妖しく響いた。
その瞳の奥には、駒を転がす喜びと、狩人のような冷酷さが宿っている。
「さあ、舞台は整った。あとは、踊っていただくだけですね──あの“英雄”に」
彼は深々と一礼し、静かに部屋を後にした。
侯爵はその背を見送りながら、ただ冷たく笑う。
「さて……どちらが先に、牙を剥くか。楽しみだな」
◆
王都の夜は静かだった。
だが、裏では新たな“狩り”の火蓋が、音もなく切って落とされていた。
王都のとある夕暮れ時、城下の貴族街に佇む小さな館──
その一室に、エルネストは密かに姿を現した。
「……間違いない。彼は王都に戻ってきている」
侍従からの報告を受け、彼は小さく微笑んだ。
「よろしい。では、早速接触に入るとしよう。あくまで“侯爵家の厚意”として──余計な色は見せず、慎重に、だ」
彼は念入りに装いを整え、夜会の装いに身を包む。
目的はただ一つ──“辺境の英雄”レオン・アルテイルへの接触だ。
王都の静かな庭園付きの館にて。
月明かりに照らされた庭の奥で、レオンは若手貴族の接待を受けていた。
──なるほど。
招待を受けた時から、レオンの内心には冷めた疑念が渦巻いていた。
(どうにも胡散臭いな……。これまで敵意こそあれ、見向きもしなかったくせに、突然俺を招く気になるのには、何かしら理由がある)
その裏にある意図は、火を見るよりも明らかだ。
だが、レオンは表情を一切変えず、黙して相手の出方を見ていた。
「本日は、急なお誘いをお受けいただき、感謝いたします。レオン殿」
エルネストは、あくまで礼儀正しく、柔和な笑みを崩さなかった。
「私どもは、ある方のご厚意で──貴族としての務めを果たしていただきたく、このような場を設けました」
第二王子の影を隠しつつ、貴族社会の“正当な勧誘”を装っている。
その手口はあまりにも手慣れており、逆にあからさまですらあった。
彼の声は滑らかで、まるで親友を誘うかのような柔らかさすら帯びていた。
(なるほど、貴族の思考──“常識”か……。誘いを断るなど、あり得ないという前提。まったく、鼻持ちならん連中だな)
心の中でレオンは冷笑する。
あくまでも、こちらが当然乗ってくるものだと信じて疑わぬ、その浅ましい傲慢さに。
「──レオン殿。王都での居場所をお探しではありませんか? この王都でも、貴方のような方には相応の役割がございます」
エルネストは懐から、一通の書状を取り出した。
そこには、侯爵家の“推薦状”と、用意された“報酬”が記されている。
「騎士の地位はお約束できますし、名誉ある辺境の英雄としての正当な爵位を。アルテイル家の再興をお望みならば、もちろん陛下への口添えもお約束いたしましょう。必要な支援は惜しみません。そして、王都一の美姫を含め、社交界の麗しき方々との縁談も」
彼は微笑みながら、まるで美辞麗句を織り込んだ絹のように、さらりと誘惑の言葉を紡いだ。
「どれも、貴方にふさわしいものばかり。……どうか、じっくりとお考えいただきたく存じます」
その声色は、あくまで謙虚で穏やかだった。
だが、そこに込められた“確信”──差し出された餌に誰もが喰いつくはず、という傲慢さは隠しきれていない。
レオンは、その一言一句を飲み込みながら、内心でさらに深く冷笑した。
並べられた“好意”が、どこまでも軽薄に思えた。
まるで手懐けたつもりで首輪を差し出してきたような、その態度が何よりも。
(……さて、俺がいつ、“餌を選ぶ獣”だと錯覚した?)
そんな思いを抱きながら、レオンはわざとらしく呟いた。
「なるほど、わざわざ俺のような“持たざる者”ごときに、至れり尽くせりだな」
「恐れ入ります。貴方のために、私どもも最大限の誠意を──」
エルネストが続けようとした瞬間、レオンは淡々と遮った。
「だが、一つ足らんな」
「……何か不足が?」
「……ああ、大事なものが抜けている」
レオンは一歩、椅子から身を乗り出す。
その瞳は冷えた鋼のようだった。
「わからんか? ──“断る”という選択肢だよ」
「……っ」
一瞬で、空気が凍り付いた。
「俺は地位も名誉も金もいらん。アルテイルの家名なんぞも、五年も前に捨てている」
その口調は冷たく、鋭く、容赦がない。
「せっかくの誘いだが──謹んでお断りさせてもらおう。侯爵と第二王子殿下によろしく伝えてくれ」
その一言で、すべてが終わった。
レオンの態度は、取り付く島もない。
エルネストはしばし呆然とし、唇を微かに震わせた。
「……左様でございますか。これは、誠に遺憾──」
どう取り繕っても、敗北は明白だった。
彼はそれ以上の言葉を見つけられぬまま、ぎこちなく一礼し、レオンの前から退いた。
その背を、レオンは冷めた視線で見送りながら、心の中で吐き捨てる。
(──やはり貴族どもは、どいつもこいつも皆、腐りきっていやがる……)




