第58話 黒の咆哮、〈聖剣〉の敗北
黒い甲冑に身を包んだ〈暗黒騎士〉が、血に染まった村の中央に立っていた。
赤く燃える瓦礫の山、その向こうで絶え間なく響く悲鳴と泣き声は、もはや彼の耳には届いていない。
黒いローブを纏った数人の影が、静かに彼の元へと近づく。全身を黒布で包んだ女が一人、足を止めた。声は冷ややかだった。
「エリオット殿。王都に潜伏していた密偵が、王国軍の偵察部隊を確認しました。どうやら、我々の行軍経路を割り出そうという目論見のようです」
「ふん……ようやく動いたか」
エリオットはゆっくりと顔を上げた。闇の中でも赤く光る双眸が、焼け落ちた村の遺骸を見下ろす。
「遅すぎる。今まで何人が死んだと思ってる? 王都の連中は、やはり絵空事しか語れん腰抜けどもばかりだ」
脇に控えていた男──眼帯の巨漢が、肩をすくめる。
「だが、今回は少し違うようですぜ。派遣されたのは、第一王子ラグナル・エルダリオンだそうで」
その名に、エリオットの唇が不敵に歪んだ。
「ふん……ラグナル、か」
その名を反芻するように呟く。〈聖剣〉のスキルと聖剣を与えられた“王家の寵児”。
「面白くなってきたな……ようやく、退屈な“駒狩り”から卒業できそうだ」
甲冑の隙間から、微かに黒い霧が立ち上る。それは彼の憎悪に反応している“邪の力”だ。
忌まわしき神の恩寵──〈黒翼〉の力。
「いいだろう、ラグナル。お前が俺を討ちに来るというのなら、俺は……お前を絶望で迎え撃ってやろう」
エリオットの背後で、黒布の女が再び告げた。
「エリオット殿。次の殺戮には“見せしめの意味”を持たせるよう、とのご命令です」
その命令に、エリオットは何の疑問も抱かなかった。否、それが望みだった。
「わかっている。どうせなら派手にやってやるさ。王族にも、貴族にも……“俺を追放した報い”を払わせてやる」
エリオットは静かに背を向けた。次なる戦場へ──その背に、深い憎悪と狂気、そして何よりも、凍てついた誇りが渦巻いていた。
◆
(……レオンめ! まったく忌々しい!!)
風が砂埃を巻き上げるなか、焼け焦げた村の跡地に、鎧に身を包んだ男が立っていた。
第一王子、ラグナル・エルダリオン。
(俺が捜しているのは〈暗黒騎士〉だ。あんな“雑草”ではない!)
そこへ偵察隊からの急報が入る。
「王子殿下! 報告です! 東部辺境砦が──急襲されました!」
「何だと……!? 敵は……〈暗黒騎士〉か!?」
「はい。目撃情報によれば、〈暗黒騎士〉を含む黒装束の集団が、砦の防衛線を突破したとのこと。現在、各地に応援要請が届いております!」
ラグナルの目が、鋭く光った。
再び、あの〈暗黒騎士〉が動き始めたのだ。
「全軍、出陣! 目標は東部砦──我々が〈暗黒騎士〉を討つのだ!」
ラグナルの号令で、地を揺らす蹄の音が響き始める。
戦雲が東へと流れ、夜の帳がゆっくりと迫っていた。
ラグナルの戦いが、今、始まろうとしている。
それは、彼自身の“弱さ”との戦いでもあった──。
夕闇が砦を包む頃、風が低く唸り、砂埃が戦の匂いを運んでいた。
ラグナルは、砦の前に立つ高台から眼下を見下ろした。
一人の騎士が呟く。
「……何という惨状だ……」
その声には怒りと恐れが入り混じっていた。
炎に包まれた外縁の柵、倒れ伏した斥候兵。まるで悪夢のような光景だった。
その中央、全身黒鎧を纏い、ただ一人、静かに立つ男──〈暗黒騎士〉。
異様に巨大な黒鎧。風も吹かぬのに、マントがゆらりと揺れる。
「〈暗黒騎士〉……!」
それを見た瞬間、数名の兵が膝をつき、剣を取り落とした。
恐怖という名の毒が、戦場にじわじわと染み渡る。
「──いたな」
ラグナルの双眸が、闇を貫いて敵を見据える。
「全軍、待機せよ。ここは……俺が決着をつける」
「王子殿下! お待ちください、それはあまりに──!」
副官の制止も耳に入らなかった。王都での敗北が、まだ胸に深く刻まれている。ここで逃げれば、自らの誇りも、王家の威信も潰える。
ラグナルは、腰の聖剣を抜いた。銀色の刃が月光を浴びて煌めく。
「我こそは、第一王子、ラグナル・エルダリオン! 正しき王国の継承者なり! 暗黒の魔よ──この剣で、貴様を裁く!」
蹄音が大地を裂き、炎と砂塵のなか、ラグナルは疾駆した。
迎え撃つ〈暗黒騎士〉は、一言も発さず、ただ漆黒の剣を抜き放つ。
閃光のような突撃が、鋼の激突となって夜空に響いた。
突如耳を劈く咆哮が砦全体に響き渡る。
それは──〈暗黒騎士〉の咆哮。
獣にも魔物にも似つかぬ、だが確かにこの世のものではない“何か”の咆哮だった。
その咆哮に、人も馬も異常をきたし、慌てふためく。
それはラグナルの騎馬も同じだった。
激しく暴れ、騎乗の主を振り落とし、この場から逃げるかのように駆け出していく。
「……化け物め……!」
振り落とされたラグナルは、剣を構え直す。
次の瞬間、〈暗黒騎士〉の剣が振り下ろされた。
空間そのものを裂くかのような、凶悪な斬撃。
それを迎え撃つように、ラグナルは渾身の力で剣を振るう。
鋼と鋼が交錯する、雷鳴のような衝撃音──
ラグナルの剣技は、確かに鋭かった。
「ハァアアアッ!!」
ラグナルの雄叫びとともに、〈聖剣〉の加護が夜を裂いた。
白銀の輝き──神より授かりし正統の剣が、闇を打ち払うかのように光を放つ。
対するは、〈暗黒騎士〉。
漆黒の巨躯、その全身を覆う魔鎧には血のような赤紋が浮かび上がっていた。
その一振りは重く、そして速い。常人では到底目で追えぬ速度で、死が迫ってくる。
「っぐう……!」
ラグナルは必死に剣を構え、受け流す。
衝撃で腕が痺れ、膝が沈む。だがそれでも、歯を食いしばって踏みとどまった。
(……こいつ……! 本当に“人”なのか……!?)
眼前の存在に、心が叫びをあげる。
だが逃げることは許されない。王族として、男として、ここで退くわけにはいかない。
「せぇぇぇいっ!!」
剣閃が闇を斬り裂き、ラグナルの一撃が〈暗黒騎士〉の肩口を捉えた。
その瞬間、僅かに黒鎧が軋む音がした──
だが。
「…………」
〈暗黒騎士〉は怯まなかった。
肩を裂かれようとも、血を流そうとも、痛みの色は見せず、ただ静かに──剣を振り上げる。
「──しまっ……」
次の瞬間、視界が白く弾けた。
全身を砕くような斬撃が、ラグナルを襲った。
鎧の腹部が裂け、聖剣ごと吹き飛ばされる。
「が……はっ……!」
血が、地を染めた。
倒れ伏すラグナル。
息が詰まり、視界がぼやけ、手が震える。
それでも彼は──立とうとした。
(ここで……終われるか……!)
立ち上がろうとするが、足が震える。剣を支える腕に力が入らない。
〈暗黒騎士〉は、ゆっくりと歩み寄る。肩の傷など気にも留めていない。冷徹な殺意だけをその身に纏っていた。
「ら……ぐ、なる様ぁ──っ!!」
兵たちが堰を切ったように飛び出す。副官が号令をかけるよりも早く、部隊は王子を庇うために戦場へ雪崩れ込んだ。
だが──それは地獄の始まりだった。
黒装束の集団が、砦の内外から現れ、王国兵を次々と屠っていく。〈暗黒騎士〉と同じく、無言のまま、殺意だけを以て。
「退け! 全軍、撤退せよ! 殿下を護れ!」
副官が叫ぶ中、ラグナルは地を這いながら、視界の端に倒れていく兵の姿を見ていた。
忠義と絶望が入り混じった叫び。
ラグナルは、噛みしめた唇から血を滲ませながら、なおも振り返る。
しかし、〈暗黒騎士〉は動じることなく、悠然とその場を離れていった。
まるで──勝者のごとく。
「……ッ……ッあぁあああああッ!!」
地を叩く怒号が砦に響く。
勝てなかった。届かなかった。自分の剣は、何一つ変えられなかった。
──俺が、無理をしなければ……。
「なぜ……俺は、……っ」
自責の念と痛みが交錯するなか、背後で一人の老兵が叫んだ。
「王子殿下を連れて、今すぐ退け! ここは……我らが、時間を稼ぐ!」
その叫びを最後に、ラグナルの意識は闇に落ちた。
夜明け前──
王国軍は東部砦を放棄し、撤退した。犠牲者は百を超え、砦の半数以上が壊滅状態。
ラグナルは、担架に乗せられたまま、意識を失っていた。
彼の聖剣は、折れてはいなかったが、その輝きはどこか鈍く、悲しげに見えた。




