第56話 器
王国各地からの報告は、いずれも遅れていた。
〈暗黒騎士〉と呼ばれる者による襲撃と破壊。
騎士団や魔法師団が急行した時には、既に敵の影も残ってはいない。
「……また、遅れたか」
王アルヴァン四世は、手から書簡を滑らせた。
無言のまま、それを拾わせるでもなく、ただ空気が沈んでゆく。
「既に、計五つの街や村が壊滅。目撃証言もあやふや、魔力痕も希薄。……まるで幻を追っているようだと、魔法師団長が」
王は無言で宰相の言葉をを聞いた。
(──次は王都か、という声が民の間で囁かれている……騎士たちの眼にも、焦燥と迷いが見える)
彼は既に限界を悟っていた。軍は機能している。だが、敵の速さがそれを上回っている。この国の“力”そのものが、じりじりと削がれていく。
「──陛下」
一人の男が進み出た。
金の間に響く、凛とした声。
第一王子、ラグナル・エルダリオン。
金髪を持ち、聖剣の担い手、〈聖剣〉の加護を宿し、貴族たちの間で“未来の王”と噂されるその男。
「王家に伝わる聖剣の担い手として、私が必ずや〈暗黒騎士〉を討伐してみせましょう」
重く響くその言葉に、廷臣たちがざわついた。
だが、王はすぐに応えなかった。しばしラグナルを見据え、何も言わず、何も動かず。
(……愚かな。あの時、貴様はレオンに敗れた。〈聖剣〉を持ちながら、傲り、侮り、皆の前でその力を示せなかった。貴様の母親もそうだ。王都中に王家の恥を晒して……結果としてレオンの囲い込みに失敗したのだぞ。それでも、まだ王を名乗るか)
アルヴァン四世の目には、ラグナルの瞳に宿る焦りがはっきりと映っていた。しかし、王の胸中にはもう一つの計算が働いていた。もしも王子が今回、〈暗黒騎士〉を討ち滅ぼし、失われた威光を取り戻すことができれば──それは単なる個人の名誉回復に留まらない。王家そのものの威信が回復し、民の不安を払拭する好機になる。
(──あれが勝てば、王家の威光は戻る。臣も再び王家を信頼するだろう。王都の不安も鎮まる。名誉の回復は、国全体の安定に直結する)
一方で、あの敗北は王家の信用を深く傷つけている。だからこそ王は冷徹に見定めねばならなかった。
(だが、これ以上の失態は許されぬ。王子が再び笑い物になれば、王家の未来は危うい。名誉回復という賭けに失敗した時は、容赦はせぬ)
王はわずかに目を伏せた。父としては、ラグナルにもう一度だけ立ち直る機会を与えてやりたい──その想いは確かにあった。だが、王としての責務と計算はそれを上回る。個の挽回が王家の再生に繋がるならば、それを利用する価値はある。逆に、失敗が王家にもたらす損失はあまりに大きい。
「──よかろう」
王の声は静かだった。だが、その眼差しには、微かな厳しさと冷淡さが潜む。
「〈聖剣〉の加護を持つ者として、この任を授ける。討伐隊を率い、各地の騒擾を鎮圧せよ」
「御意」
ラグナルは深く頭を垂れた。その胸中では、強い決意と同時に、内心の渇望が燃え盛っていた。
(今度こそ……今度こそ、俺は失われた名誉を取り戻す。王としての威光を、民の前に示す。誰も俺を軽んじはしない……誰にも、あの男にも)
しかしその背に、父である王の視線が突き刺さる。王の複雑な計算──父としての情と、王としての非情な決断──が同居する視線だ。王は表に出さぬが、内心では勝利のもたらす利益を思い描き、同時に敗北の代償を冷たく見積もっていた。
(これで駄目なら、それまでのこと。その時は、王家の未来から切り捨てることも考えねばならぬか……だが、本当にそれが出来るか?)
◆
王は深く息を吐き、書斎へと戻った。そこで宰相が静かな声で確認した。
「陛下、本当によろしいのですか? ラグナル殿下にすべてを託すのは、あまりにも危険かと……」
書斎の重厚な木製の机に、宰相の手が震えるほどに力が入る。王の決断が、あまりにも大きな賭けに思えたのだ。しかし、王の返答は冷ややかだった。
「……これでいい。むしろ、王家にとって、国にとってはこれくらい痛い目に遭うべきだ。たとえ、すべてを失うことになってもな」
「……ですが陛下、殿下は……」
「わかっている」
王の声は低く、鋭かった。だがその奥には、ほんのわずかに苦さが滲んでいた。
「奴が“王の器”に足りるかどうか、確かめる時は今しかない。結果を見極める覚悟はある。成功すれば王家の威信は回復する。その利益は大きい。しかし失敗すれば、断固として対処する。父としての情で機会は与えるが、王としての責務は果たすつもりだ」
ぽつりと漏れた本音は、重く沈んだ空気の中に消えていく。王の瞳は遠くを見据えていた。父の情と王の非情──その狭間で揺れる姿は、誰にも見せることはなかった。
宰相は、しばし沈黙したまま王の横顔を見つめていた。
重厚な書斎の空気が、まるで冷えた鉄のように張り詰めている。
王の決断は揺るがぬものだった。それがどれほど危うい橋であろうとも。
(──第一王子殿下はまだ、王子としての責務に立ってはいない。これは“王子”としての戦いではない。敗北した者が、その汚名を晴らそうとするだけの戦いだ。信頼を取り戻すための、あくまで“己”のための戦い……)
宰相の胸中に、不安が静かに積もっていく。
第一王子の決意は確かに見えた。だが、その根底にあるのは、王家の威信を背負う覚悟ではなく、自身の名誉を取り戻そうとする焦燥だ。
それでは、いかに〈聖剣〉の加護を持とうとも、民を導く王にはなれない。
(陛下はそれを承知の上で……あえて、試そうとしておられるのか? 王家の未来を賭けて……)
宰相は唇を噛み、深く頭を垂れた。
王の胸中にある“計算”を理解できぬほど愚かではない。王家の威信を回復するために、この機会を利用する──その理屈はわかる。
だが、あまりに危うい賭けだ。一度失敗すれば、王家は再び民の信を失う。
第一王子の名誉どころか、王家そのものが失墜しかねない。
「……陛下のご決断、理解いたしました。確かに今、この国には“象徴”が必要でございましょう。殿下の勝利がもたらすものは、あまりに大きい」
宰相はそう言いながらも、その声は僅かに震えていた。
消極的な賛同──それが、彼にできる精一杯の誠意だった。
(……だが、もし失敗した時は……)
宰相は心の奥で、静かに次の言葉を飲み込む。
失敗は許されない。だが、万が一が起きた時の備えは必要だ。
王家の崩壊を防ぐために、次の手を──。
(いかなる事態になろうと、王国が立ち続けねばならぬ。陛下も、殿下も、そのために犠牲となる覚悟を持たねばならない……)
宰相は静かに目を閉じた。
忠臣として、王の決断を支える覚悟を固めながらも、同時に最悪の結末に備える策を胸に描く。
それが、長年王家を支えてきた者の、冷たくも現実的な務めだった。




