第44話 長老
霧に包まれた森の奥、陽光も届かぬ静寂の中に、一本の巨木があった。
その根元には天然の空洞があり、光苔が天井を仄かに照らしている。
そこに、エルフの長老はいた。
蒼銀の長髪を編み、瞳には深き森の叡智が宿る。
全身から、風と木の気配がにじみ出ているようだった。
案内のエルフが恭しく頭を下げ、レオンを一歩前に押し出す。
「……人の子よ。よくぞ結界を越えたの」
長老の声は、深く、ゆったりとした響きを持っていた。
威圧感はない。だがその言葉には、長き時を生きた者の重みが宿っている。
「精霊花と、風語りの詩……。それを用いて門を越えた者は、数百年ぶりだ。……そして何より……」
長老の瞳が、レオンの肩に視線を注いだ。
そこには、まだ微かに漂う風の精霊の残滓が揺れていた。
「……風が、おまえを喜んで迎え入れた。精霊は気まぐれだが……それは、この森にとって重要な徴となる」
レオンは黙って頭を下げた。
長老はしばしレオンを観察し、やがて椅子にもたれかかり、静かに問うた。
「……して、人の子よ。汝がこの森を訪れた理由を問おう。誰かを、何かを、求めて来たのか?」
レオンは小さく頷き、名を口にした。
「……リューシャという名のエルフを探しています」
その名を聞いた途端、場の空気がわずかに揺らいだ。
一同の表情が鋭くなり、周囲に控えていた数人のエルフがわずかに身を強張らせた。
長老は、視線を逸らさずに問い返す。
「……その名をどこで聞いた? 何を、どこまで知っている?」
レオンは一呼吸おき、言葉を選びながら答えた。
「リューシャ──女性であること。二百年前、オーソン・アークレインという男と共に、“神”と戦ったこと。それだけです」
長老の眉が僅かに動く。
「……ふむ。誰が、その名をお前に伝えた?」
レオンは迷いなく答えた。
「セファルという名の者から。彼は……人ではありません。かつてオーソン・アークレインに仕えていた存在で、今は……私の導き手です」
沈黙が落ちる。
その二つの名が、長老の中に何かの記憶を呼び覚ましたらしい。
彼は深く目を閉じ、しばし思案した。
「……オーソン・アークレインに、セファル……。その名を偽りに使う者はおらぬ。……ならば、お前の言葉に嘘はなかろう」
そして、再びレオンに視線を向けた。
その目には、わずかに探るような色と、懐かしさの混じった驚きが宿っていた。
レオンは、その視線をまっすぐ受け止めたのち、静かに言葉を続けた。
「……セファルはかつて、オーソン・アークレインに仕えていた存在。彼は私に教えを授け、オーソン・アークレインの遺志を継ぐ者として、私を第二の“マスター”と呼び、今は私に仕えています。だからこそ、私はこの森に来た。過去を知るために。そして、未来のために」
長老の顔から表情が消え、数瞬の間、その場の空気が一段と深く沈んだように感じられた。他のエルフたちも、言葉を失ったようにレオンを見つめている。
やがて、長老が静かに息を吐いた。
「……そのような運命が、また紡がれようとはな」
彼の声には、過去を想う哀惜と、未来への憂慮が入り混じっていた。
長老は椅子にもたれたまま、長い沈黙の末にゆっくりと語り始めた。
「……リューシャ。森に生まれ、風と語り、精霊と共に生きた我らが誇り。かつてこの世界が暗黒に呑まれかけた時、一人の人間と共に立ち上がった」
その声は、過去を噛み締めるように、静かで、重く──どこか切ない響きを帯びていた。
「オーソン・アークレイン。神によって異世界より召喚され、スキルを持たず、人の身でありながら、世界の変革を望み、神に抗った男。リューシャは彼の隣に立ち、精霊の力を以て、多くの命を救った。火を凍らせ、風を斬り裂き、大地に天の雷を降らせる。その精霊魔法の才は、我らエルフの中においても群を抜いていた。……いや、もはや神話の域と言っても過言ではなかろう」
レオンはじっと耳を傾け、長老の言葉の一つ一つを胸に刻み込むように聞いていた。
「だが、二百年前の大戦が終わったあと──世界がかりそめの平穏を取り戻したあと、リューシャは……人々の前から姿を消した」
長老は目を伏せた。
「彼女は、何も告げなかった。ただ静かに、この森の奥に身を潜め、誰とも言葉を交わさず、ただ……時の流れに身を委ねるように、生き続けている。その理由を問う者もいたが、彼女は誰にも応えなかった。……それでも、我らは理解している。あまりにも多くを見過ぎたのだろう、深き傷と疲れを」
沈黙が落ちる。風がわずかに木の葉を揺らし、長老の言葉の余韻を運んでいった。
「リューシャは今も、この森の奥にいる。だが、誰の呼びかけにも応えはしない。……人の子よ、それでも会いたいというのか?」
レオンは、はっきりと頷いた。
「ええ。……どうしても」
長老の目が細められる。そこに映るのは試すような光ではなかった。ただ、静かなる敬意。
「ならば、導こう。……だが、決して彼女の心を乱すな。彼女は今なお、世界を見ている。ただ、その声を誰にも明かしていないだけだ」
長老に案内されたのは、エルフの隠れ里の奥深く。古木が絡み合い、光さえも届かぬような静寂の森の中だった。風は囁くように吹き、木々はただ黙して見守っている。足元の草は踏みしめても音を立てず、すべてが息を潜めているかのようだった。
やがて、長老が足を止めた。
「……この先に彼女はいる。我らでもこれ以上は滅多に近づかぬ。彼女は、己が望んだ時にのみ他者を受け入れる。……呼ばれたと思ったなら、進むがいい」
レオンは一礼し、森の奥へと足を踏み入れた。
数歩ごとに、空気が変わっていく。
風の音が消え、葉の擦れ合う気配すら遠のいていく。
それでもレオンは一歩ずつ進む。
瞳を閉じ、ただ“感じる。




