第43話 隠れ里
王と宰相からエルフの隠れ里に関する情報を得た後、レオンは、もう王都なんぞに用はないとばかりに、さっさと旅支度を整え、挨拶もそこそこに、早々にその地を離れていた。
背後に広がる王都の街並みを一度だけ振り返る。その胸に湧き上がるのは、名残惜しさなど欠片もない、ただひたすらな解放感だった。
(──やれやれ、ようやく煩わしい鎖の街を抜け出せたか)
貴族たちの打算も、王家の策略も、己には無縁のもの。これで、しばらくは誰の顔色を窺うこともなく、自分の道を進める。足取りは自然と軽くなる。
もちろん、その頃──王都の裏では、自身を排除しようとエリオットが水面下で動いているなど、レオンは知る由もない。もし、仮に知っていたとしても、王都を離れる好材料として喜んだに違いない。
早朝、〈北方巡礼者の丘〉の断崖で咲くという精霊花──ミリュアの花を採取し、風笛を腰に下げたレオンは〈霧の森〉の入口に立っていた。森は既に薄い霧に包まれ、その奥からは静かに風が語りかけてくるかのようだった。
「ここから先がエルフ族の結界になるのか」
彼は深く息を吸い込み、精霊花の香りを胸に染み込ませ、風笛を唇に当て、慎重に〈風語りの詩〉の旋律を奏で始める。
最初の音が森の静寂を切り裂くと、霧がまるで呼応するように揺らめいた。次第に視界が晴れ、迷いの結界が少しずつ消えていく。
しかし、霧の中から突如として黒い影が立ち上がった。
それは幻のように現れた古代の守護者。レオンの覚悟が試される瞬間だった。
「出てきたな、だが、行かせてもらうぞ」
剣を抜き放ち、風笛を片手に構える。旋律を途切れさせずに戦いながら、守護者の動きを見極め、着実に前へ進む。
──どのくらい進んだのだろう。
霧が割れ、風が静まり、森の気配が変わる。
それは、ただの自然の静けさではなかった。
世界そのものが、息を潜めたのだ。
──結界を越えた。
それを感じ取った瞬間、レオンの背に、鋭い視線が突き刺さった。
「そこまでだ、人の子よ」
空気が切り裂かれたかのように、鋭く冷たい声が飛ぶ。瞬きの間に、レオンの前方に一人のエルフが現れていた。金の髪を風に揺らし、翡翠の瞳に警戒と敵意を灯したエルフ──彼女は弓ではなく、腰の剣にそっと手を添えていた。
「ここはエルフの地。許しなき者が踏み入ることは叶わぬ。……何者だ。何のためにこの地を侵した」
レオンはその気迫にたじろぐことなく、落ち着いた声で名乗った。
「俺の名はレオン。王都にて、古の記録を辿り……“リューシャ”という名のエルフを探している」
彼女の眉がぴくりと動く。その名に、思い当たる節があるらしい。
「……リューシャ? その名を、どこで聞いた」
「俺を導く者のもとで語られた。だが、直接会ったことはない。……ただ、精霊と語る者、失われた知を継ぐ者として、その名を聞いたにすぎない」
嘘は言っていない。だが、それは疑いを解くには十分ではなかった。
彼女はしばらくレオンを無言で観察していた。
まるでその魂を見透かすかのように、瞳が鋭く光る。
「……ならば、なぜ結界を越えられた? 人間にそれができるはずはない」
レオンは懐から、小さな白い花を取り出して見せる。
「“精霊花”。これは王家の情報で〈北方巡礼者の丘〉から得たものだ。そして──」
彼はそっと、風笛を唇に当て、王から託された〈風語りの詩〉の旋律を奏でた。
笛の音は古代語のように、森の風と共鳴するかのように響いた。
……その瞬間、風がわずかに動き、彼女の髪を揺らした。
「……盟約の詩を……人間が……」
「これで結界を越えたというわけだ」
彼女の剣の手がようやく緩んだ。だが、依然として完全には警戒を解かない。
「……だが、それでもこのまま里には通せない」
「ならばどうしろと? 俺はただ、“リューシャ”という名のエルフに会いたいだけだ。それが無理なら、その名を知っている者に話を聞きたい。それだけでもいい」
彼女は目を伏せ、小さく息をつくと、仕方なくといった表情で言った。
「ならば、長老の許しを得ることね。この地に他者を招くか否かは、私の独断では決められない。……ついてきなさい。だが、里に足を踏み入れるのは、許しが下りてから。いいわね?」
「……わかった」
レオンは頷き、静かに彼女の背に従った。
霧の奥に広がる、伝説の民の里。
その門は、まだ完全には開いていない──。
彼女に導かれ、レオンは森の中腹、木々に囲まれた小さな開けた空間へと通された。
そこは結界の「内」と「外」の狭間、いわば“門前”だった。
「ここで待ちなさい。長老に伺いを立てる」
それだけを告げ、彼女は霧の向こうへと姿を消した。代わりに、木々の梢から気配が移り変わる。……目には見えぬが、レオンはすぐに理解した。
──監視されている。
その気配は一人ではない。少なくとも三人。いや、もっと多いかもしれない。そのすべてが、弓を構え、もし彼が一歩でも余計な動きを見せれば、即座に排除する覚悟で臨んでいるはずだ。
緊張に満ちた空気の中、レオンは静かに腰を下ろした。
この五年間の修行で、こうした圧に晒されることは幾度もあった。これが初めてではない。
「さて……ただ待つのも芸がないな」
(……余計な動きは避けるべきだが、瞑想くらいなら問題ないだろう……)
レオンはゆっくりと目を閉じた。
深く、静かに、呼吸を整える。
瞑想──己の精神と肉体を一点に繋ぎ、〈原初の力〉と呼ばれる流れを感じ取る行為。
それはセファルとの修行の中で幾度も繰り返され、自らの核へと至る術だった。
……レオンの体から、目に見えぬ波が広がっていった。
〈原初の力〉──それは世界の始まりにも近しい、純粋なる流動。
スキルとは異なり、形も名も持たぬ。だが確かに、“世界”と繋がっているもの。
その力に、風が応えた。
空気が変わる。風が動く。
木々がさざめき、葉が震える。
どこからともなく、小さな気配がレオンのもとへ寄ってくる。
光の粒が空に揺れ、やがて一つ、ふわりと彼の肩に舞い降りた。
それは、風の精霊だった。
人間の眼ではただの光としか映らないかもしれない。
だが、木々の上で監視していたエルフたちは、はっきりとそれを“視た”。
──風の精霊が……人間に、自ら寄っていった……?
驚愕の気配が、枝から枝へと走る。
通常、精霊たちは森の住人であるエルフすら選ぶ。人間などには本来決して近寄らない。
それが、あろうことか自ら接近し、親しげに寄り添っている。
「まさか……彼は……」
監視していた一人のエルフが、急ぎ仲間に目配せを送った。
やがて、霧の向こうへと一人が走り出す。
──長老に報告を。
精霊が示したこの“兆し”が、見過ごせぬ意味を持つ可能性があるからだ。
昼が近づき、光が短く差し込む頃。
レオンの前に、再び先程のエルフが姿を現した。その気配を感じたのか、レオンはゆっくり瞑想を解いた。
彼女の表情は、先程とはわずかに違っていた。警戒心の奥に、戸惑いと、そしてある種の敬意が混じっている。
「……風の精霊が、あなたに触れたと聞いた。……人の子に、それほどの“流れ”が宿るとは思わなかった」
レオンは立ち上がり、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺はただ、いつもの癖で冥想を行っていただけだ。それにここへ来たのは、ただ知りたいだけだ。この世界に何が起きているのか……“リューシャ”という名に、どんな意味があるのか」
彼女は一つ小さく息をつき、そして頷いた。
「……長老がお前に会うと言っている。ついてきなさい。だが、言葉と姿勢を誤れば、命はないと心得なさい」
「承知した」
霧が再び動き出す。
その先には、伝説の民の長が待っている。
物語は、深奥へと歩みを進めていく──。




