第38話 〈黒翼〉
月が雲に隠れ、辺りは漆黒に包まれていた。
エリオットは一人、母から指定された場所──王都郊外の廃教会跡に足を運んでいた。護衛を連れてくるような真似は厳禁だと釘を刺されていたため、彼の周囲に人影はない。
教会の扉は朽ち、瓦礫と苔に覆われた石造りの聖堂。その祭壇の前に立った瞬間、突如、背後に気配が現れる。
「よく来たな。貴公が“依頼者”か」
低く抑えた声。振り返ったエリオットの目に映ったのは、漆黒のローブを纏った人物だった。顔は仮面で隠され、性別すら分からない。
「……貴様が〈黒翼〉の一員か?」
「答える必要はない。我らが名を口にすること自体、命を賭する行為と知れ」
ローブの者は一歩、エリオットに近づく。その動きは音すらなく、まるで影そのもののようだった。
「……それで、俺の“依頼”は受けるのか?」
「我らは依頼に対価を求める。金、情報、血筋、魂……貴様が差し出すのはどれだ?」
「……金なら、いくらでもある。要求を言え」
「金だけで済むなら、それに越したことはないが……我らが手を貸すのは、“本物の覚悟”を持つ者のみ。貴様にそれがあるか、今ここで試させてもらう」
その瞬間、エリオットの喉元に冷たい刃が突きつけられていた。いつ抜いたのか、目にも止まらぬ速さだった。
「ッ……!」
「この程度に反応も出来ぬとは……それでも〈聖騎士〉なのか? ──お前は、本当に“弟を殺す覚悟”があるのか?」
鋭い問いと刃の冷気が肌を刺す。だが、エリオットの目は怯えなかった。むしろ、その問いを待っていたかのように、炎を宿していた。
「……あいつは、俺のすべてを奪おうとしている。血を分けた弟だろうが、何だろうが──俺は奴を許さない」
沈黙の後、刃がスッと引かれた。ローブの男は一歩、下がる。
「……いいだろう。ならば、我らの名を告げよう。我ら〈黒翼〉はお前の依頼、確かに受け取った」
男は懐から小さな黒い羽根を取り出し、それをエリオットに差し出した。
「これは“契約”の証。次にお前の前に現れる時、標的は“消える”。それまで、余計な動きをするな。くれぐれも邪魔をするな、よいな?」
そう告げた次の瞬間、男の姿は霧のように掻き消えた。
残されたエリオットは、震える指先で黒い羽根を握り締めた。その中に滲むのは、期待か、それとも恐怖か──
(レオン……貴様は俺が殺す。この手で、必ず)
◆
〈黒翼〉──その名は記録に残らず、記憶にも残らぬ。だが、歴史の節目には必ずその“気配”があった。
遡ること百年。王都がまだ泥と石の都市だった時代、反乱を扇動し王家を一度滅亡寸前まで追い込んだ“仮面の叛徒”は、〈黒翼〉の一員であったと密かに伝えられている。
また、北方戦争の影で暗躍し、敵国との密約を取りまとめた「影の仲介者」──その名もなき使者もまた、〈黒翼〉の触手に過ぎなかった。
大陸の南端、砂漠の都市国家。数十年前、突然の内乱で政権が転覆し、神殿が焼き払われた事件──その引き金となった毒殺事件の背後にも、〈黒翼〉の介入があったと密かに噂されている。
彼らは一つの国家に属さず、忠誠も誓わない。ある時は王家の密偵として、またある時は反乱分子の支援者として裏で動く。巧妙に姿を変え、情報と命を売り買いし、貴族たちの欲望や怨恨の影に寄り添う。どれほど清廉な貴族であろうとも、知らずに〈黒翼〉の恩恵を受け、あるいは彼らに操られていることがあるという。
彼らの目的は単なる利益ではない。世界の“理”そのものを転覆し、神を打ち倒し、闇の王──邪神を現世に降ろすこと。それを成すためなら、どれほどの時間も、どれほどの犠牲も厭わない。
そして今、再びその計画が動き出そうとしていた。表の世界が知らぬままに、影は確実に浸食を進めている──。
その本拠地、地下都市〈アブゼロス〉の最奥にある、会議の間。地下都市と言ってもさほど大きくはない空間。その仄暗い空間の中、幹部たちが円卓を囲んでいた。そこには人間とは思えぬ異形の者、魔族と見まがう者、仮面に包まれた者──まさに“闇の頂点”と呼ぶにふさわしい存在たちが並ぶ。
その中で、唯一堂々と顔を晒し、艶やかな微笑を浮かべている女がいた。辺境の貴族、アルテイル家の正妻──〈黒翼〉においては、“黒羽ノ令嬢”の名で知られる幹部の一人。
「……例の件、我が子が正式に依頼を出した」
柔らかく響く声。しかしその声音の奥に宿るのは、母性ではなく、冷ややかな観察者のそれだった。
「フ……なるほど、ようやく奴が動いたか」
「見事に挑発に乗り、こちらが手を引かずとも、自ら足を踏み入れてきた。“選ばれし血脈”としての資質は、まだ見込みがある」
「だが、“異母弟殺し”を選ぶとはね。貴様の“家族観”も冷たいものだ、黒羽ノ令嬢」
異形の幹部が舌を鳴らすように笑う。だが彼女はその言葉に眉一つ動かさない。
「勘違いするな。レオンは私の子ではない。妾腹の出来損ない──感情を抱く理由など、最初から存在しない」




