第36話 誤算と打算
王城最上階、謁見の間の奥にある静謐な応接室。壁には歴代王の肖像画が並び、王家の紋章が深紅の旗に刻まれている。淡く香る香水の匂いと、磨き上げられた金細工の燭台が静寂の中に気品を漂わせている。
その中心、ソファに優雅に腰かける女がいた。
──王妃カミラ。冷徹なる美貌の女帝と謳われる、第一王子ラグナルの母。
彼女の傍らに控える侍女が、柔らかく頭を下げてレオンを案内した。
「よくいらしてくださいました、レオン殿。あの戦いの後、あなたと二人で話す機会を持ちたいと願っていたの」
カミラはあくまで上品に、しかし有無を言わせぬ威圧を孕んだ笑みを浮かべていた。
その眼差しは、獲物を測るようにレオンを見据えている。
「私のような者をお招きくださり、ありがとうございます。王妃殿下」
(……ふむ、品定めか。全くご苦労なことだ)
「……まずは、あなたの剣に敬意を。正直ラグナルがあれほど何もできずに敗れるとは思ってもいなかった。だが、それこそが──あなたの価値というものよ」
「恐れ入ります。ですが私の価値など、特に大したものではありません」
「あなたの力、王家のために振るうつもりはないかしら。第一王子ラグナルに仕え、貴族派に加わるのなら──地位も、名誉も、報酬も惜しまないわ」
テーブルの上には宝飾品が置かれている。赤金の印章指輪、貴族階級を保証する紋章、そして黄金の証書──どれも、見返りとしては十分以上だろう。
カミラはゆっくりと立ち上がり、レオンに一歩近づく。
「あなたのような“無所属の英雄”は、時として災いにもなる。けれど、“王家の剣”となれば……その存在は、すべてを変える。あなた自身の未来もね」
彼女の声は甘く、それでいて冷たい刃のようだった。
だが──その誘いに、レオンの表情はまったく揺るがなかった。
静かに、短く、レオンは口を開く。
「……私は誰にも仕えるつもりはありません。王子にも、派閥にも。陛下にもそのように申し上げました」
カミラの目がわずかに細められる。
「報酬が足りないかしら? 望むものがあれば──」
「いえ、結構です」
レオンの声は平坦で、静かだった。
「これといって欲しいものはないのです。地位も、金も、名誉も。お恥ずかしい話、私はこれまで与えられることのない人生を送ってきたせいか、それが普通のことになってしまっております。王妃様のお言葉は大変ありがたいのですが、お気持ちだけで十分です」
それに、とレオンは静かに続けた。
「私は──自分の未来は、自分で決めます」
その瞬間、王妃カミラの微笑が凍りつくように消えた。
沈黙が落ちる。
冷たい空気が、室内を満たす。まるで薄氷がひび割れる直前のような、張り詰めた緊張が走った。
「……ずいぶん、はっきりと言ってくれるのね」
「ええ、妙な誤解をされたくはありませんので。腹の探り合いなどは──暇を持て余した権力者たちに任せておけばいい。正直私は、そう思っていますから」
レオンの声音は、どこまでも冷ややかだった。
(……まったく、こいつもか……)
内心で毒づきながらも、口調はどんどんぞんざいになっていく。
もはや、相手にするのが面倒だったのだ。
権威にも、甘い誘惑にも、一歩も引かぬその態度に、王妃の瞳が鋭く細められる。
「……ならば、覚悟しておきなさい。属さぬ者は、この国では常に“敵”として見られるものよ」
「それなら、今更ですね」
レオンは肩をすくめ、薄く笑った。
「第一王子殿下は、はっきりと私に“敵”だと言いましたよ? “殺す”とも。しかも初対面で。その場で、王妃様も確かにお聞きになられていましたよね? ……まあ、それでも私は一向に構わないと、はっきりお伝えしましたけれど」
「……」
ぐうの音も出なかった。
王妃は息子の無様な失態を思い出し、苛立ちと屈辱に顔を引きつらせる。だが、すぐに表情を取り繕い、やがて王妃は再び微笑んだ。王族として、この小僧に余裕を見せねば。
「……よろしいわ。今日のところは、これで終わりにしましょう。ただ──忘れないことね。あなたが“盤上の駒”ではないと主張するのなら、この国はあらゆる手段で、あなたを駒として動かそうとし続ける。それが──“現実”というものよ」
レオンは微笑を返した。だがその目は笑っていない。
「人を盤上の駒、と……。国がそれを動かす。それが現実、ですか」
静かな声に、淡々とした皮肉がにじむ。
「まるで、この世界の理そのものですね。神がスキルを与えるか否かで人の運命が決まる。王が人を操るのも、それと同じことだと。ククク……ハッハッハ。なるほど、盤上の駒、か。実に面白い発想だ」
レオンは、ゆっくりと王妃を見つめた。
その瞳に宿るのは、絶対の覚悟。
「まるで、ご自分が“神”であるかのような口ぶりですね、王妃様?」
──空気が、一変した。
レオンから、凄まじい【原初の力】が溢れ出す。
まるで空間そのものを歪めるかのような、その圧倒的な圧力。
その中で、レオンは優しく微笑み、静かに言葉を紡ぐ。
「私は、十歳の時──すべてから見捨てられた時に決意したのです」
「スキルがなくとも、自分の力で生き抜いてみせる、と。それを証明してみせる、と」
「もし、それを許さないというのなら──神であろうと討ち果たす覚悟は、もう決まっています。……いわんや、王国をや、ですよ?」
そこまで告げた瞬間、目の前のテーブルが宝飾品ごと、見えない力によってグシャッと握り潰される。
ギュゥゥゥ……ッ……
鉄をねじ切るような音。嫌悪感すら催す圧縮音。
気付けば、テーブルは人の頭ほどの金属の塊に変わっていた。
「ひ、ひぃッ……!」
王妃の顔から血の気が引き、甲高い悲鳴が漏れた。
恐怖に支配され、椅子から立つことすらできない。
だが──レオンは肩をすくめ、あっけらかんと言った。
「あちゃー……やっちゃいました。すみません。ほんの、ほんの少しだけ……イラっとして、力が入ったみたいです」
悪びれもせず、軽く頭を下げる。
そして、扉へと向かいながら、肩を回すように伸びをした。
「まあ、陛下にはちゃんと謝っておきますので。その辺はご安心を」
失礼しました、と軽く一礼し、「……ああ、弁償代が高くつきそうだなぁ」と、呑気な独り言を呟きながら、悠然と去っていく。
その背中を、青ざめた王妃が──恐怖に凍りついたまま、ただただ見つめ続けるしか出来なかった。
ようやく我に返った侍女が、部屋の異変に気付き、声にならない悲鳴を漏らした。
部屋の壁も床も、大きく歪み、軋み、崩れかけていた。
◆
陽光は大理石の床に反射し、白銀の柱を照らしていた。だが、その静謐な空気の奥底には、王族たちの複雑な思惑が静かに渦巻いていた。
第一王子ラグナルが、辺境の剣士──レオンに決闘を挑み、敗れたという報せは、瞬く間に王宮中を駆け巡った。さらにその直後、王妃がレオンに接触し、半ば脅迫じみた態度で取り込もうとして拒絶されたことも、内密ながら各所に伝わっていた。
その噂話が、静かに語られる一室──
第二王子、ユリウス・エルダリオンは、書斎にて帳簿の整理をしながら、控えめに笑みを浮かべていた。
「……まったく兄上は。つくづく期待を裏切らない方だ」
手にしていた羽ペンを机に戻し、整えられた書類に目を通すふりをしつつ、耳を澄ます。隣室で侍従たちが交わす会話の断片──ラグナルの失態、王妃の焦燥──それら全てが、彼にとっては好都合だった。
(やはり“あの者”は使える……だが、まだ早い)
彼の胸に去来したのは、辺境で育ったというその少年──レオンの存在だった。剣技において兄を圧倒し、王妃の威圧にも屈しない胆力。危険ではあるが、それゆえに魅力的な駒である。
しかしユリウスは、それを表に出すことはなかった。
彼は兄ラグナルのように、煌びやかな〈聖剣〉を持たない。だがその代わり、彼に授けられたスキル〈治世〉は、政治と統治において絶大な力を発揮するものだった。
彼は数年にわたり、王都の財政と法整備に貢献し、「次代の王の器」として、内政派の重鎮──ライエン侯爵の後ろ盾を得ていた。
だがその仮面の裏には、冷徹な野心が隠されていた。
「感情で動きすぎるから、兄上は失うのだ。……獲物も、民心も、王位も」
独り言のようにそう呟くと、ユリウスは椅子にもたれかかり、窓の外を見やった。王都の空は、青く穏やかだったが、その下では、確実に時代のうねりが始まりつつあった。
「レオン・アルテイル……お前の存在が、王都に波を起こすのなら。それを利用しない手はない。だが、まずは──見極めよう。どれほどの波か、どれほどの力か」
彼の視線の先には、見えぬ未来が広がっていた。
仮面を被った王子は、静かに微笑む。
その笑みの奥に潜む野心に、誰も気付くことはなかった。




