第315話 静けさの底で
「──!」
……なんだ、今の。
いや、それよりも──ここは、どこだ?
何も見えない。だが、闇でもない。
ただ、白い。あまりにも白すぎて、上下も前後もわからない。まるで距離という概念そのものが溶けてしまったみたいだ。
身体を動かそうとして、やめた。
重い。
ひどく重い。全身を濡れた布で何重にも包まれているようで、指一本動かすのにも理由が要りそうだった。
「──ン!」
……うるさいな。
どこから聞こえてくるんだ、その声。頭の奥に直接響いてくるみたいで、やけに落ち着かない。
せっかく静かで、悪くない感じだったのに。
「──オン!」
だから、そんなに大声を出すなって。
聞こえてる。ちゃんと、聞こえてるから……。
……。
ああ、そうか。
思い出した。俺は一人じゃなかったな。
湿った空気。
腐臭と瘴気。
砕け散る骨と、あの冷たい魔力の感触。
リッチ──。
剣を振るった感覚は、まだ掌に残っている……気がする。
いや、本当に残っているのかどうかも、もう自信がない。
「……もう、終わったはずだよな?」
声に出したつもりだったが、白い世界は何の反応も返さない。
そもそも、今のは声だったんだろうか。
まあ、いいか。
身体が鉛みたいに重い理由なら、考えなくてもわかる。
限界まで使った。奥義も、力も、意地も。全部だ。
だから──少しくらい、休んでもいいだろ。
「……もう、ちょっとだけ」
瞼を閉じる感覚すら曖昧なまま、意識が再び沈んでいく。
遠くで、まだ誰かが俺の名前を呼んでいる気がしたが──
今は、構う気になれなかった。
◆
「レオン! レオンってば!」
イルの切羽詰まった声が、大広間に響いた。
倒れ伏したレオンの傍らに膝をつき、彼女はその手をぎゅっと握りしめる。
冷たくはない。だが、力がまるで感じられなかった。
「お願い、返事して……!」
「呼吸は……あるね。でも、反応が鈍い……」
レティシアはレオンの顔を覗き込み、眉をひそめる。
「ひどく消耗しているみたい……」
レンリはレティシアに支えてもらいながら、震える声で言った。
イルはさらに身を乗り出し、必死に呼びかける。
「レオン! ねえ、聞こえる!? 起きてよ!」
その時──
「……うるさいぞ。聞こえてるってば……」
かすれた、今にも消えそうな声。
確かに、それはレオンのものだった。
「レオン!?」
イルの顔がぱっと明るくなる。
だが、次の瞬間、その期待は揺らいだ。
レオンの瞳は開いている。
しかし、その焦点は合っていない。イルの姿を映しているはずなのに、どこか遠くを見ているようだった。
「……やっぱり、意識が……」
レティシアが静かに呟く。
呼びかけには反応する。
言葉も発している。
だが、それは周囲を正しく認識してのものではなかった。
レオンの意識は、まだ深い霧の中にある。
「……意識は、あるみたいだね」
レティシアはレオンの顔を間近で見つめ、呼吸の間隔や瞳の動きを慎重に確かめる。
声音は冷静だったが、そこには確かな緊張が滲んでいた。
「でも、ひどく疲労してる。自分でも状況がよくわからないまま、反射的に返事してるんだと思う。今は、あまり動かさないで」
「……うん」
イルは小さく頷き、握っていたレオンの手を離さずにいた。
レティシアは腰のポーチから小さな小瓶を取り出す。
中で揺れたのは、淡い緑色の液体だった。
「イル、これを飲ませて」
「これって……」
「あたしが作った薬。即効性は高くないけど、少しは体力の回復を助けられるはず。今は、それが必要」
イルは慎重にレオンの上体を支え、唇に瓶の口を当てる。
液体が少しずつ喉を通るのを確認してから、ようやく息をついた。
その間に、レティシアはレンリの容体を確かめる。
「レンリは……とりあえず大丈夫」
淡々と、だが確信をもって告げる。
「解毒も済ませたし、止血して傷も塞いだ。応急処置はやれるだけやったよ。帰ったら、ちゃんと治癒士に診てもらおう」
レンリは壁にもたれたまま、蒼白な顔で小さく頷いた。
「……ごめん」
かすれた、今にも消えそうな声。
だが、レティシアはすぐに首を横に振る。
「謝る必要なんてないから。ちゃんと耐えたし、よくやったよ」
そう言って、もう一つ同じ小瓶を取り出す。
「レンリも、飲んでおこうか」
差し出された薬を、レンリは両手で受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
レオンの胸はまだ大きく上下しているものの、先ほどまでの荒い呼吸は、少しずつ落ち着きを取り戻している。
唇が、わずかに動いた。
声にならないほど小さな呟き。
何を言っているのかは聞き取れない。
ただ、誰かの名を呼んでいるようにも、何かを確かめようとしているようにも見えた。
「……もう魔物、出ないといいけど……」
イルが周囲を見回しながら、小さく呟く。
その声には、戦闘を乗り越えた安堵と、まだ拭いきれない不安が混じっていた。
「大丈夫だよ」
即座に、レティシアが答える。
それでも視線は大広間の奥や天井、崩れかけた柱の陰へと巡らされ、警戒を解いてはいない。
「少なくとも、ここにはもういないし……これから増えることもないから」
「ほんと……?」
「うん。あれはリッチの死霊術だからね。リッチが消えれば、もう生まれてこない」
そう言い切りながらも、レティシアは足音一つ、空気の揺らぎ一つにも注意を払っている。
安全だと判断しても、確信を持ち切ることはない。
レティシアは荷物から水筒を取り出した。
「イル、少し飲んで」
「あ、うん……ありがとう」
イルは水筒を受け取り、一口、二口と喉を潤す。
張り詰めていた表情が、わずかに和らいだ。
次に、レティシアはレンリの元へ行き、ゆっくりと水を飲ませる。
レンリは小さく咳き込みながらも、確かに水を受け取った。
「……ありがとう」
「無理しないで。少しずつでいい」
最後に、レティシアはレオンの傍へ戻る。
上体を支え、慎重に唇へ水を含ませると、レオンは反射的に喉を動かした。
まだ意識は朦朧としている。
それでも、生きているという確かな証が、そこにはあった。
レティシアは再び周囲へ視線を走らせる。
戦いは終わったが、完全な安全が保証されたわけではない──
その意識を、決して手放さないまま。
しばらくして、二人の様子は目に見えて落ち着いてきた。
レンリの呼吸は安定し、顔色も先ほどよりわずかに血の気を取り戻している。
レオンの胸の上下も穏やかになり、薬がきちんと効いてきたのだろうと分かった。
そのレオンは──いつの間にか、眠りに落ちていた。
「……あれ?」
それに気付いたイルが、はっとしてレオンの顔を覗き込む。
「レオン? ねえ、レオン……!」
一瞬、焦ったように声をかけるが、反応はない。
ただ、規則正しい寝息だけが返ってくる。
「だ、大丈夫なの!? 急に反応しなくなったけど……」
不安そうなイルに、レティシアがすぐに声をかける。
「大丈夫。意識を失ったわけじゃないよ」
レオンの脈を確かめながら、落ち着いた口調で続ける。
「薬が効いて、身体が休息を必要としてるだけ。むしろ、ちゃんと眠れてるのはいい兆候」
「……ほんと?」
「うん。今は起こさないほうがいい」
その説明に、イルはほっと胸をなで下ろす。
「そっか……よかった……」
再びレオンを見つめるイルの表情には、ようやく安堵の色が浮かんでいた。
戦いの余韻はまだ残っているが、少なくとも今は、皆が一息つける時間だった。
「レンリも、少し寝た方がいい」
レティシアは優しく、しかしはっきりと告げる。
「無理しないで。体力を回復させないとね」
レンリは一瞬、何か言おうと口を開きかけたが、結局それ以上は何も言わなかった。
代わりに小さく頷き、壁にもたれて目を閉じる。
ほどなくして、呼吸はゆっくりと整い、眠りへと落ちていった。
やはり、限界まで無理をして起きていたのだろう。
それを確かめてから、レティシアはイルの方へと向き直る。
「……イルも休もう」
静かな声だった。
「レオンも、レンリも大丈夫だから」
イルは少しだけ迷うように視線を二人の間で揺らした後、ようやく頷く。
「……うん」
その声には、まだ不安が残っていたが、同時に張り詰めていたものがほどけた気配もあった。
こうして、大広間には再び静けさが戻る。
残るのは、規則正しい呼吸音と、戦いを乗り越えた者たちの、束の間の休息だけだった。
◆
……静かになった。
いや、違うな。完全な静寂というわけじゃない。
どこか遠くで、誰かが話している。
声は聞こえるのに、言葉としては掴めない。
水の底から聞いているみたいに、輪郭がぼやけている。
相変わらず、身体は重い。
指先に力を入れようとしても、応えてくれそうにない。
まあ、無理もないか。
……もう少し休めば、元に戻るだろう。
不思議と、焦りはなかった。
ただ、力を使い切った後の、あの感覚に似ている。
……なんだろうな。
この感じ。
昔も、こんなことがあった気がする。
そうだ──修行時代だ。
毎日のように剣を振って、何かと戦っていた。
誰と、何と戦っていたのかは、正直あまり覚えていない。
必死すぎて、考える余裕なんてなかったからな。
あの頃も、倒れては起こされて、また戦って……それを繰り返していた気がする。
今思えば、よく無事だったものだ。
そんな記憶の断片を辿りながら、レオンは軽く、息だけで笑った。
……変わってないな。




