第313話 折れた刃、残された絶望
「レンリ、しっかりして!」
レティシアは崩れ落ちたレンリの身体を抱き起こし、その名を何度も呼んだ。細い肩がぐったりと力を失い、頭が彼女の腕の中で不自然に揺れる。
顔を覗き込んだ瞬間、レティシアの表情が強張った。血の気が引いたように蒼白で、唇の色も悪い。額には冷たい汗が浮かび、呼吸は浅く、不規則だった。
(これは……)
脳裏に、先ほどの戦闘の光景がよぎる。ゾンビの腕が振り抜かれ、レンリが咄嗟にかわしきれずに受けた、あの一撃。
(傷だけじゃない。毒……おそらく、あの時に)
アンデッド特有の腐毒。恐怖や痛みも彼女を蝕んでいるだろうが、今もっとも優先すべきはそれではない。
「まずは解毒……」
レティシアは即座に判断し、腰のポーチを探った。指先が迷うことなく小瓶を掴み出す。透明な液体が揺れるそれは、常に携行している解毒薬だった。
レンリの顎をそっと支え、口元に瓶を当てる。
「大丈夫、飲めるわね……」
慎重に、しかし躊躇なく薬を含ませる。喉がかすかに動き、液体が飲み下されたのを確認してから、レティシアは小さく息を吐いた。
「イル、もう少し耐えて!」
背後で魔物を食い止めているイルに、振り返らず声を投げる。戦況を気に掛けながらも、手元の作業に集中するその声は、揺るぎなかった。
次は止血だ。
レティシアは布と包帯を取り出し、傷口を素早く露わにする。裂けた衣服の下、赤黒く滲む傷を確認すると、迷いなく圧迫し、止血薬を振りかけた。
レンリの身体がびくりと震えるが、意識はまだ戻らない。
「……ごめんね。でも、今は我慢して」
呟くように言いながら、包帯をきつすぎず、しかし確実に巻いていく。血が止まり、傷が塞がれていくのを確認するその動きは、長年の経験に裏打ちされたものだった。
解毒、止血、固定。
一つ一つを的確にこなしながら、レティシアはレンリの顔色を何度も確かめる。まだ安心はできないが、最悪の事態は避けられるはずだ。
(大丈夫……助かる)
そう信じるように、彼女は最後まで手当ての手を止めなかった。
◆
倒しても、倒しても──闇の奥から新手が湧き出すように押し寄せてくる。砕かれ、焼き払われ、地に伏したはずの魔物の向こうから、また別の影が姿を現す。その数は減るどころか、じわじわと包囲を狭めていた。
背後では、レティシアが必死にレンリの名を呼び続けている。その声が、途切れそうで途切れない希望の糸のように、イルの耳に届いていた。
(近づけさせない……絶対に)
イルは歯を食いしばり、両手を突き出す。迸る雷光が空を裂き、一直線に魔物を貫いた。焦げた匂いとともに、影が崩れ落ちる。間髪入れず、次の詠唱。今度は幻影──幾重にも重なったイル自身の姿が周囲に散り、魔物たちの視線を惑わせる。敵は一瞬、標的を見失い、虚空に爪を振るった。
「今だ……!」
その隙を逃さず、彼女は複数の火球を同時に放つ。赤熱した塊が弧を描き、次々と魔物に叩きつけられる。溶ける音、肉の焼ける音。容赦はなかった。倒れるか、燃え尽きるか──その二択しか与えない。
だが、それでも追いつかない。
魔力はまだある。威力にも自信はある。それでも、同時に相手取る数が多すぎた。雷を放てば背後が疎かになり、幻影に集中すれば前線が崩れる。火球を連射すれば、詠唱の一瞬が致命的な隙になる。
(まずい……)
必死に寄せ付けまいと踏みとどまっていたが、気付けば魔物の影はすぐそこまで迫っていた。腐臭と殺気が、肌を刺すほど近い。
「来ないで!」
叫び声が、恐怖と必死さを帯びて弾ける。それでも、手を休めるわけにはいかなかった。叫びながら、詠唱を続け、魔力を絞り出す。
イルはただ一人、二人を守る壁となって、押し寄せる闇に立ち向かい続けていた。
◆
一方、レオンもまた、その闇の波を浴びていた。
胸の奥に直接触れられたかのような嫌悪感と、理性を削り取るような恐怖。足がすくみ、視界が一瞬歪む。
(……っ、まずい)
それでも、彼は歯を食いしばった。完全に呑み込まれる寸前で踏みとどまり、剣を地面に突き立てて体勢を支える。
だが、そのわずかな動揺が致命的だった。魔物たちが、その隙を逃さず距離を詰めてくる。
「──くそっ!」
レオンは再び剣を強く握り直した。腕に力を戻し、乱れた呼吸を強引に整える。
切り裂く。退ける。守る。
そう自分に言い聞かせ、態勢を立て直そうとした、その瞬間だった。
──気配が、消えた。
(なに……?)
次の刹那、視界が歪む。
気付いた時には、リッチが目の前にいた。
音もなく、滑るように距離を詰めてきたその姿に、背筋が凍る。空間そのものを歪めたかのような移動だった。
骸骨の顔が、至近距離でこちらを見下ろしている。
「──っ!」
リッチは何の詠唱もなく、杖を振り下ろした。
黒い魔力を纏った一撃が、真っ直ぐレオンに叩き込まれる。
「ぐっっ!!」
咄嗟に剣を構え、なんとか受け止める。
金属が悲鳴を上げ、衝撃が腕から肩、全身へと走った。足が地面を削り、後方へと押し込まれる。
(重い……!)
それでも、耐えた。
反撃に転じようと、剣に力を込め、踏み込もうとした──その瞬間。
骨ばった手が、伸びた。
リッチの指が、がっちりとレオンの腕を掴む。
冷たく、嫌な感触。生き物とは思えぬ力で、逃げ場を奪うように。
「──なっ……!」
反撃の動きは、完全に止められていた。
レオンは反射的に腕を引こうとするが、びくともしない。骨ばった指が食い込み、まるで鉄枷で拘束されたかのように、振りほどくことができなかった。
「……はっ、離せ!」
焦りを押し殺し、空いている左手を前に突き出す。
──【原初の力】。
内奥から湧き上がる力を展開し、この状況を打破しようとした、その瞬間だった。
ゾクリ、と。
氷水を背骨に流し込まれたかのような、冷たく不快な感覚が、レオンの全身を貫いた。
「──っ!」
喉が引きつり、声にならない息が漏れる。
四肢から、力が抜けていく。筋肉が自分のものではなくなったかのように、踏ん張りが利かない。視界の端が暗く滲み、意識が遠のいていくのがはっきりとわかった。
(まず……い……)
目の前で、リッチがわずかに首を傾けた。
骸骨の顔に表情などあるはずがない。それでも──気のせいか、嘲るように、笑ったように見えた。
このままでは、終わる。
その恐怖が、レオンの意識を強く引き戻した。
「……まだだ……!」
歯を噛み締め、必死に踏みとどまる。震える身体に残った力をかき集め、腰を捻る。
そして──渾身の一撃を放った。
鈍い衝撃音。
レオンの蹴りが、リッチの腹部を打ち抜く。
不意を突かれたのだろう。さすがのリッチも体勢を崩し、掴んでいた手が離れた。骸骨の身体がふらりと後方へと下がる。
その隙を、レオンは逃さない。
彼は一歩踏み込み、手をかざした。
左手の先に、【原初の力】が奔流となって集束する。
「──吹き飛べ!」
解き放たれた力が、衝撃波となって炸裂した。
リッチを中心に、周囲の魔物ごと巻き込み、空気を引き裂きながら吹き飛ばしていく。闇と肉片が宙を舞い、地面が震え、視界が白く弾けた。
束の間、前線に──大きな空白が生まれた。
「──【原初・空間同調──破刃の導】!!」
一瞬の隙を、レオンは逃さなかった。
踏み出した足と同時に、意識を鋭く一点へと収束させる。
虚空に、幾何学的な輪が浮かび上がった。
重なり合う複数の円環は、ゆっくりと、しかし確実に回転を始める。それは単なる魔法陣ではない。レオンの精神と完全に同調し、空間そのものを“斬撃”へと変換するための、原初の儀式陣。
輪が加速する。
次の瞬間──目に見えぬ刃が放たれた。
空気が裂ける音すらなく、空間そのものが切り取られる。
リッチの周囲を守っていた魔物が、抵抗する間もなくその身体を断ち切られ、原形を留めずに飛び散る。
だが、レオンはそれで終わらせない。
瞬時に後方を振り返る。
そこには、なおもルに迫ろうとする魔物の群れ。
魔法を連打し続けていた彼女の背中が、わずかに揺らいでいるのが見えた。
「──【原初・空間反転──衝解】!!」
解き放たれた力に応じ、周囲数メートルの空間が、ぐにゃりと歪んだ。
一瞬、上下も前後も失われたかのように、世界が反転する。
その圏内に踏み込んでいた魔物たちは、次の瞬間、内側から破裂した。
肉も骨も悲鳴も、空間干渉の前では意味を持たない。圧縮され、反転され、逃げ場を失った存在が、音もなく弾け飛ぶ。
空間そのものによる、破壊。
(……これで、イルも少しは息がつけるはずだ)
そう判断し、レオンは再び前方へと視線を戻す。
衝撃で後方へ押しやられたリッチが、なおも闇を纏い、こちらを睨み据えていた。
その瞬間、身体の奥に重石を詰め込まれたような感覚が走る。
腕が、脚が、鉛のように重い。呼吸をするだけで、肺が軋む。
「……ちくしょうっ!」
思わず膝をつきそうになる。
だが、レオンは歯を食いしばり、倒れることを拒んだ。剣を地面に突き立て、震える身体を無理やり支え、再び構えを取る。
視線は逸らさない。
相手は、まだ──立っている。
(ここで、終わらせる……!)
重い身体を引きずるように、それでも剣先をリッチへと向け、レオンは次の一撃に備えた。
「──【原初解放──“始まりの刃”・纏!】」
レオンの叫びに応じ、剣が震えた。
【原初の力】が溢れ出し、蒼白い光となって剣を覆うように纏わりつく。鋼そのものが光へと変質したかのように、剣は淡く、しかし鋭い輝きを放った。
呼吸は荒く、足取りも覚束ない。
それでも、レオンは剣を握る手だけは決して緩めなかった。
その様子を見逃すほど、リッチは甘くない。
──止めを刺すつもりなのだろう。骸骨の身体がふっと宙に浮かび、空間を滑るように移動する。次の瞬間には、既にレオンの眼前まで迫っていた。
振り下ろされる杖。
黒い魔力を纏った一撃が、一直線に落ちてくる。
「──っ!」
レオンは即座に剣を振り上げ、受け止めた。
蒼白い光と闇がぶつかり合い、激しい衝撃が迸る。
そのまま、両者は切り結ぶ。
杖と剣が交錯し、火花が散る。レオンは踏み込み、斬り払う。リッチはそれを滑らせ、逆に打ち込む。
一進一退の攻防。だが、時間が経つにつれ、差は確実に広がっていった。
先ほどの攻撃で、体力を吸われている。
剣を振るう度、視界が揺れ、脚が言うことをきかなくなる。
(……くそっ)
ほんの一瞬。
足元が、ふらついた。
その隙を、リッチは逃さなかった。
骸骨の身体が軋む音とともに踏み込み、杖を大きく振り下ろす。
レオンは反射的に剣を重ねる。
だが──
バキィッ!!
乾いた破砕音が、戦場に響き渡った。
受け止めた剣が、蒼白い光ごと、無残に折れた。
砕け散る刃の欠片が宙を舞い、レオンの視界を白く染める。
彼の手には、半ばで断たれた剣の柄だけが残されていた。




