第3話 少年の決意
振り返ると、そこには兄エリオットが立っていた。あからさまに冷ややかな笑みを浮かべながら、エリオットはレオンを見下ろす。
「どんな気分だ? 家から追い出されて、無一文で歩くことになるなんてな」
その言葉に、レオンは無意識に歯を食いしばった。これまで何度も、兄から侮蔑の言葉を浴びてきた。だが、今回は違った。怒りがこみ上げ、胸が熱くなる。エリオットの冷ややかな笑みを見つめながら、レオンの中で怒りが沸騰していった。この豚を屠殺してやりたいという気持ちを抑えつつ、それでも思わず言い返してしまった。
「スキルを得ただけで実力が伴ってない奴が、偉そうに語らないでよね。大体剣もまともに扱えないくせにさ、ただの看板をぶら下げているだけじゃないか」
エリオットは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに薄ら笑いを浮かべる。
「へぇ、俺が〈聖騎士〉のスキル持ちだってこと、まだ理解できてないのか?」
「理解してるさ。〈聖騎士〉ってスキルなだけの、ただのクズだってことをね」
レオンは冷ややかな目を向け、低い声で言い返した。もはやこれっぽっちも敬意を払う必要はない。まあ、相手は豚だ。オークだ。何言ったってかまうものか。
そしてわずかに眉をひそめながら続ける。
「でもね、〈聖騎士〉のスキルだけじゃ戦えない。まともに訓練もしてない奴が、大口をたたかないほうがいいよ? きっと恥をかくだけだ」
エリオットの笑みが引きつり、口元がピクリと動いた。
「……何様のつもりだ、お前」
「落ちこぼれだよ。スキルも授かれなかった、家からも追い出された落ちこぼれさ」
レオンは皮肉めいた笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「でも、そんな落ちこぼれでも、お前のような脂肪満載の、ぶよぶよなオーク君には負ける気なんてしないんだよ」
そう言い残すと、レオンは荷物を持ち、背を向けて家を出るために歩き出そうとする。
レオンが背を向け、たその時──
「待てよ!」
怒声が背中に突き刺さる。振り返ると、エリオットが顔を紅潮させ、拳を握りしめて立っていた。
「うるさいな。まだ何か用なのか?」
「そこまで言うなら勝負しろ!」
エリオットの怒りと悔しさが混じった声が響く。
「お前の力を見せてみろよ、この落ちこぼれ!」
レオンは静かに兄を見つめ返した。目に燃えるような闘志を宿しながらも、その声音は冷めていた。
「勝負? 力を見せる? ……お前みたいなクズが、あまり図に乗るなよ?」
静かに殺気を込めて一歩前に出ると、気圧されたのか、思わずエリオットは後退りする。情けない。それでも〈聖騎士〉なのか?
「どうした? 見たいんだろ? 僕の力を」
一拍置いて、鼻で笑い、続ける。
「フッ、口だけで臆病者のお前に本当に力があるのか、いずれ分かる時が来るさ。そして僕の力もね」
真っ青になったエリオットを、レオンはそれ以上相手にせず、踵を返して歩き出す。兄が何か、ブーブーと喚いていたが、レオンはもう振り返ることはなかった。人に豚の言葉を解することは出来ない。
屋敷の門をくぐると、そこには誰の見送りもなく、ただ冷たい風だけが彼の髪とマントを揺らしていた。敷地の外れにある石畳の道を、ゆっくりと歩いていく。背中に背負った荷物は軽い。というより、軽すぎた。剣と、手切れ金として渡されたほんのわずかな金貨、それに替えの服が少し。この家に残したものは何もない。あったとしても、何一つ惜しくなかった。
「……これで本当に独りか」
呟いた声は、誰にも届かず、冷えた空気に溶けていった。遠く、森の向こうに続く未舗装の道が広がっている。そこには行き先も、迎えてくれる者もいない。
けれど、レオンの足取りは止まらなかった。スキルを持たず、地位も名誉もない。だがそれでも、剣だけは手放さなかった。それが、自分に残された唯一の誇りだった。
「僕は……僕の力で、生きてやる」
そう心に誓いながら、少年は静かに、確かに、一歩ずつ未来へと歩き出した。どこまでも続く未舗装の道を、一人歩いていく。石を蹴り飛ばすたびに、苛立ちが、怒りが足元から跳ね返る。
なぜだ。
なぜ僕には、何も与えられなかった?
努力を重ねて、剣を振り続けて、誰よりも真剣だった。
それでも、神は僕に何一つ与えなかった。
まるで最初から、存在すら許されていなかったかのように。
「ふざけるな……!」
声が、怒鳴り声となって喉からほとばしる。
森に響いたその叫びは、誰に届くこともなく、虚しく風に散った。
神なんて、クソくらえだ。
誰が“恵み”など求めた?
誰が“導き”など願った?
お前が決めるな。お前に選ばれる価値など、僕のどこにもない。
歯を食いしばる。握った拳は白くなるほどに力がこもる。
「スキルが全て? ふざけるな……!」
あいつは剣すらまともに振れない。それでも〈聖騎士〉のスキルを得た。それだけで皆が頭を下げ、称え、跪く。そういう世界だ。そういう“神の意思”だ。
だとすれば、そんな世界こそが、間違っている。
「神に選ばれなかったからって、僕が価値のない存在だって? 笑わせるな……!」
この世界は腐っている。神の名のもとに、努力を無視し、血筋と偶然にだけ価値を与える。そんな世界がまともであるはずがない。
「僕は……僕の力で証明してやる」
「神なんかいなくても、人は戦えるってことを」
「スキルなんかなくても、生き抜けるってことを!」
怒りは炎のように心を灼いていた。だがその炎は、彼を焼き尽くすのではなく、前へと突き動かす原動力になっていた。
レオンは顔を上げる。
遠く、夕日に染まる地平線を見据えながら、歩き続ける。
こんな世界には全力で抗い、それを認めないなら、神をも滅ぼしてやる!
──それは、少年の揺るぎない決意であり、神と世界への宣戦布告だった。
◆
木製の大机の上には文書と印章が山のように積まれていたが、男爵はそれを手に取ることもせず、腕を組んで窓の外を見つめていた。
(エリオットが〈聖騎士〉のスキルを授かったことは、まさに家の運命を変える好機だった)
かつては自分も〈剣士〉という凡庸なスキルで生き、それ故に地方にとどまるしかなかった。それでも領地を守り、誠実に務めてきたつもりだ。だが、中央からの評価は低く、寄親である、辺境伯爵家との関係も冷えたままだ。
(辺境伯爵……あの方の名前を聞くだけで、いまだに背筋が強張る)
中央で言えば、侯爵にも匹敵するとされる、あの辺境伯爵家。王国の北辺を任され、魔の森に備えるという重大な任を担い続けてきた名家。そしてその当主、〈剣聖〉のスキルを持つ男。
(俺など、ただの〈剣士〉に過ぎない……剣を振るう技は同じでも、その格は天と地ほどの差がある)
若かりし頃、一度だけ会ったことがある。あのとき交わした言葉は、わずか数語。だが、〈剣聖〉の瞳に宿る気迫と冷厳さは、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
(まるで見下されているようだった。いや、実際にそうだったのだろう。辺境を預かる“器”かどうかなど、あの方には一目で見抜かれていた)
それでも。
今や自らの息子エリオットが、〈聖騎士〉という高位のスキルを授かっている。これは、一世一代の好機なのだ。家の格を上げ、あの辺境伯爵家と、いや、中央にすら食い込む足がかりになるかもしれない。
(だが、あの方に認められるには……いや、相手にされるには、まだ足りない)
スキルを授かれなかったレオンは、そうした希望の前にはあまりに無価値だった。むしろ、その存在が恥であり、足を引っ張りかねない危険因子だったのだ。
(だから追放した。エリオットこそが、我が家を導く光なのだから)
しかし、それでも時折、あの〈剣聖〉の冷たい眼差しが夢に出てくる。自分の背後に立ち、静かに剣を抜く気配さえも感じて、はっとして目を覚ます夜もある。
(奴に認められねば、貴族としての未来はない。だが、また会うなど……できれば、避けていたい)
机の端に置かれた封書。そこには辺境伯爵家の印章が封蝋に押されている。
男爵は視線を逸らすようにして、それをそっと裏返した。




