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持たざる者は、世界に抗い、神を討つ  作者: シベリアン太郎


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第21話 見限

 書状を携えた辺境伯爵の使者が、重々しい空気を引き連れてやってきた。


「辺境伯爵ギルベルト閣下より、男爵閣下にお達しです」

「……何と?」


 使者は恭しく文を差し出し、無言で待った。

 開かれた文には、淡々とこう綴られていた。


『──貴息エリオット殿、戦場にて敵前逃亡を確認。結果多くの貴家騎士を失った責任は、貴息にあるものと認識している。戦場において配下の騎士を見捨てて逃げ帰った者が、いかなる評価を受けるか、改めて言うまでもあるまい。貴息より直接、説明と謝罪をされたし。近日中に出頭させよ』


 読み終えた瞬間、アルテイル男爵の顔色が変わった。


「くっ……! 何をしておるのだ! あの馬鹿は!!」


 手に持った文がわずかに震える。

 この文には怒りも罵倒もない。ただ、事実と静かな侮蔑だけが並んでいた。それが何よりも堪えた。


(辺境伯爵家から見放されれば、我が家の王都での立場は……!)


 息子への怒りと、己の判断の甘さへの悔恨とで、頭が沸騰するようだった。



「あ、あれは……!」


 傷だらけの馬に乗り、埃にまみれて帰還した若き男の姿に、男爵家の兵士たちが目を見開く。


「エリオット様!?  まさか……お一人で!?」


 返す言葉はない。ただうつむいたまま、エリオットは館の奥へと消えていった。

 その背中を、兵たちは何とも言えぬ不安と沈黙の中で見送っていた。


 重く閉ざされた扉の前に立ちすくむエリオット。額には汗が滲み、手は冷たく湿っている。


(父上は、まだ何も知らない……。うまく……取り繕えば……)


 そんな考えを抱く暇もなく、扉を開けた瞬間、男爵の鋭い視線が突き刺さった。


(……だめだ、知っている……)


 エリオットはそんな父の姿を見て、すぐさま言い訳を始めた。


「父上、俺は悪くない。あれは……あんな魔物の群れ、誰だって──」

「黙れ」


 鋭く言い放たれた声に、エリオットはびくりと肩をすくめた。書類を机に叩きつけるようにして、アルテイル男爵は立ち上がる。


「辺境伯爵から急ぎ使者が来たぞ。貴様は……〈聖騎士〉だろうが! それでいて、配下を見捨てて逃げ帰ってきたと?」

「だって、あのままじゃ俺まで──!」

「それで死んだほうがまだマシだったわ!」


 怒声が室内に響き渡る。男爵は拳を握り締め、こみ上げる怒りと屈辱に顔を歪めた。


「貴様のせいで、我が家の未来は……!」

「……」


 エリオットは押し黙った。返す言葉も、弁解の余地もなかった。

 顔を伏せ、父の怒声から逃れるように、ただ目を逸らすだけだった。

 男爵は執事に命じる。


「……馬を用意しろ。すぐに辺境伯爵家に向かう。お前もだ、エリオット」

「そんな、俺はまだ体調が……」


 どう見ても怪我などしていないにもかかわらず、情けない声で拒否する。


「貴様……何を言っているのかわかっているのか?」

「む、無理だ! 俺は体調が悪いんだ! だか──」

「もういい。貴様は謹慎していろ。部屋から一歩も外に出るな!」


 息子の言葉を遮ったその声には威厳もなく、ただ焦りと惨めさがにじんでいた。



 アルテイル男爵が訪れたのは、息子の失態から十日後のことだった。

 石造りの簡素な応接間。貴族の屋敷とは思えぬほど質素な造りに、アルテイル男爵は落ち着かぬ心地を覚える。冷たい石の椅子に腰を下ろすこともなく立ち続けるまま、やがて扉が開かれた。

 現れたのは、ギルベルト辺境伯爵。鎧ではなく、軍務用の黒衣姿。威圧感は、むしろそれによって際立っていた。表情を崩さぬまま、彼は対面の椅子に腰を下ろした。


「遠路ご苦労だったな。……で?」


 たった一言。

 それだけで、ここが謝罪の場であることを確定させるに十分だった。

 アルテイル男爵は意を決したように、膝を折り、深々と頭を垂れた。


「……我が息子エリオットが、大変な不始末を。貴家の名誉を汚し、兵を失わせ……誠に申し訳ございません……」


 ギルベルトは無言だった。

 部屋には緊張が降り積もっていく。

 やがて、静かな声が発せられる。


「──エリオットの姿が見えないが?」


 男爵は顔を上げかけたところで、その言葉に凍りついた。


「……彼からの説明、謝罪を、直接受けると言ったはずだ。……彼は、どうした?」


 詰問の声に、男爵の唇がわずかに震える。

 言葉を探すも、容易に出てこない。


「そ、それは……その……まだ体調が、回復しておらず……」

「ふん……謝罪にもこれんのか。つまり、魔物だけではなく、将たる責任からも逃げた、というわけだな? ……もはや救いようがないな」


 吐き捨てるように言い、ギルベルトは目を細めた。

 その視線には、もはや怒りすらない。あるのは──徹底した軽蔑だった。


「兵を使い捨てにしてはならぬ。ましてや、一戦も交えずに、将が我先に逃げるなど──貴家ではそれが許されるのか?」

「……いえ」


 返す声はかすれていた。

 傍らに控えていた騎士団長ライアスが、冷静な口調で口を開く。


「書状でもお伝えしましたように、貴家の騎士五十名のうち、三十二名が戦死。残りも負傷により戦線離脱を余儀なくされました。生存者の手当ては既に済んでおります故に、動ける者から順次帰領されますよう。それから遺族への補償は、そちらで対応されるようお願い申し上げます」

「……もちろんでございます」

「貴家がこの件をどう償うかは、そちらに任せる。ただ、以後当家から、協力を求めることはないと思え」


 それは、絶縁とも取れる宣言だった。


「……ギルベルト閣下」


 ようやく声を絞り出した男爵に、ギルベルトは最後の一言を突きつける。


「力なき者が戦場に出れば、こうなる。スキルの名だけでは、兵はついてこぬのだ。お前の()()()()()にそう伝えておけ」

「……」

「それだけだ。もうよい」


 それきりだった。まるで、相手にされていないと分かる無言の圧力。男爵はそれ以上何も言えず、恥辱に顔を歪めながら、唇を噛んだまま立ち上がり、部屋を後にするしかなかった。


 扉が静かに閉じられると、ギルベルトはようやく小さく息をついた。


「……〈聖騎士〉とは、やはり名だけのことか」


 ぼそりと呟いたその声には、深い侮蔑と、予想以上に脆かったその現実への失望が滲んでいた。


「ある意味想像以上でしたな」


 ライアスが感想を述べる。二人の胸中には共通の思いがあった。

 あの家──アルテイル男爵家は終わりだ、と。


 辺境伯爵領から戻ったアルテイル男爵は、ようやく外套を脱ぐと、重たげに自室の椅子に腰を落とした。


「……我が家は、もう……」


 独りごちたその声は、まるで老境の男のようだった。

 既に息子を叱責する気力も、家を立て直す妙手もなかった。

 ただ、一族の名がゆっくりと失墜していく気配だけが、屋敷全体を静かに包んでいた。


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