第208話 外交戦線の始まり
イングラード代表の要請により、〈遥かなる暁星〉の面々は、ヴァレク・クロスの評議会宿舎に滞在していた。宿舎は、連盟代表たちの賓客を迎えるために整えられた建物であり、白い石造りの壁や磨き抜かれた床、重厚な調度品が並び、どこか緊張感のある雰囲気を纏っている。
「久しぶりにまともなベッドと飯だ。ありがてぇな」
夕食を終えたゴディスが、椅子の背に豪快に体を預け、腹を叩くように満足げに言った。
「ゴディスは少し行儀良くしないとダメだよ? 食事中、メイドたちが引いてたんだから」
レンが呆れ混じりに窘めると、ゴディスはニヤリと歯を見せて反論した。
「うるせぇ、んなもん気にしてたら飯の味も薄れちまう」
「でも、確かに久々に落ち着ける宿だね。柔らかいベッドなんて、いつぶりだろう」
「お前はすぐ寝そうだな」
ゴディスが軽く肩をすくめると、レンは頬を膨らませて返す。
「そりゃ、ここ数日、ほとんどまともに休めてなかったんだから」
その隣では、〈遥かなる暁星〉のリーダーであるセレナが、静かにワインを傾けていた。
「……でも、油断は禁物よ。明日の会談で帝国がどう出るかはわからない。ここに呼ばれた時点で、私たちはただの傍観者じゃないということなのだから」
「わかってるさ」
レンは短く答える。
「支部長が言ってただろ。帝国が否認しても、俺たちの証言が切り札になるって」
その場の空気が一瞬だけ引き締まった。
〈遥かなる暁星〉のメンバーも、各々の表情を硬くし、明日に向けての覚悟を新たにしているようだった。
◆
翌日、ついに会談の時が来た。
ヴァレク・クロス評議会本館の重厚な扉の向こう、広間の中央に設けられた会談卓には、帝国側の高官たちと自由都市連盟の代表が向かい合う形で座っていた。
今回の交渉は、イングラード代表が主導することになっていた。
ヴァレク・クロス、アスラン・ヘイブンの両代表は、基本的には必要以上に口を挟まない方針だ。そのため、二人は慎重な面持ちでイングラード代表の背後に控え、静かに様子を窺っていた。
一方、〈遥かなる暁星〉の面々は、隣室で待機している。
厚い扉一枚隔てた向こうから、会談の声が僅かに響いてくる。
「……始まったな」
ゴディスが腕を組みながら低く呟く。
「呼ばれるのは後半だろうな」
レンが椅子にもたれ、気配を探るように目を細める。
広間では、帝国側の高官が悠然と口を開いた。
「さて、今回は実りある話がしたいものだ」
鷹揚な態度を崩さない。
それは帝国の国力の差、立場の優位を如実に示していた。彼らにとって、自由都市連盟はあくまで小国であり、対等ではないという空気が言葉の端々から漂う。
だが、イングラード代表は一切動じなかった。
「そうだな。だが、実りがあるかどうかは貴国次第だがな」
低く響くその声は、硬質な刃のような冷たさを含んでいる。
帝国の高官はわずかに眉を上げたが、余裕を崩さず、薄笑いを浮かべた。
そして、まるで待っていたかのように口火を切った。
「相変わらず事態は進展していないようだな。我が帝国は、改めて特殊部隊の派遣を主張する」
声色は落ち着いていたが、どこか見下すような響きがある。
イングラード代表は、ゆっくりと組んだ手をほどき、鋭い視線を向けた。
「事態は進展している。悪い方へな。それに特殊部隊の件は受け入れられないと、前回もはっきり申し上げたはずだが?」
一拍置き、低い声がさらに続く。
「それに……帝国は“技術提供”とやらを一向に果たそうとしない。ここで改めて確認しておきたい。我が国に提供される技術とは、最新の採掘技術で間違いないか?」
帝国高官は軽く頷き、薄く笑う。
「うむ、間違いない」
「それで、その技術提供は一体いつになったらされるのだ?」
イングラード代表の声には、先程までの静けさが嘘のように、怒気がわずかに混じり始めていた。
「いまだに我が国には、技術者も情報も、道具の一つすらも届いていない。そもそも、貴国にその気があるのかと、疑われても致し方ないのではないか?」
その言葉に、帝国高官は僅かに口角を吊り上げた。
「疑い……? それは聞き捨てならぬな。こちらは交渉の過程を踏んでいるだけだ」
「交渉? 我々は既に区画を譲渡した。こちらが一方的に譲歩したにもかかわらず、帝国からは約束の履行が一切ない。これを不誠実と言わず何と言う?」
広間の空気が、静かに張り詰めていく。
ヴァレク・クロス、アスラン・ヘイブンの代表は、互いに顔を見合わせ、余計な言葉を飲み込んで様子を窺うしかなかった。
「ほう、我が国が“不誠実”だとは……ずいぶんと言ってくれるものだな」
帝国の高官は、わずかに笑みを深めた。先ほどの技術提供の件で多少不利になったと察したのか、敢えて話をずらし、優位を保とうとする。
「帝国に対し、ずいぶんと上からものを言うのだな? 身の程をわきまえよ」
大国の権威を持ち出せば、こちらが引くと考えているのだろう。声色にはあくまで余裕があった。
イングラード代表は、その言葉を真正面から受け止め、鋭く視線を返す。
「身の程をわきまえろ、か……そっくりそのまま返そう」
端から見れば暴言とも取れる発言だが、声には一切の恐れも迷いもなかった。
「我ら自由都市連盟は、帝国の属国ではない。そちらが約束を果たさぬ限り、我々も譲る理由はない」
帝国高官の笑みが一瞬だけ固まった。
「……強気だな」
「強気ではなく、事実を述べているだけだ」
イングラード代表は背筋を伸ばし、手元の文書を机上に置いた。
「帝国が不誠実だと申した理由、ここにその証拠がある」
広間の空気が張り詰める。
ヴァレク・クロスとアスラン・ヘイブンの代表が息を呑み、帝国側の随員たちも互いに顔を見合わせる。
イングラード代表の次の言葉を、誰もが待っていた。




