第202話 元・冒険者
「──へぇ、こいつは薄気味悪いな」
ひどく落ち着いた、だがよく通る声が広場に響く。
「そうだね。すっごく嫌な気配が漂ってるよ」
涼やかな女性の声が、それに続く。
セレナが振り返ると、広場の崩れかけた石壁の上から二人の人影が降り立った。
「よっこらせっと」
片手に黒鉄の剣を無造作に下げた青年──レオン。
背に弓、腰に双剣、明るい金髪を風に揺らしたエルフ──レティシア。
その場の空気が一瞬止まる。
「あなた達……!」
セレナの目が驚きに見開かれる。
レオンは片目を細め、目の前の霧を一瞥した。
「……これは、ずいぶんと面倒そうな奴だな」
「見たことないよね、こんなの」
レティシアは周囲を見回しながら、弓を手に取る。
「……ちょっと試してみる?」
「そうだな。どうせ暴れる場所はいくらでもある」
ゴディスが苛立った声を上げた。
「おい! お前らCランクじゃ話にならん! 下がってろ!」
その言葉に、レオンは冷たく目を細めた。
「元、な」
「……何?」
「冒険者は辞めてきた、今はただの剣士と魔法使い。そこのリーダーには話したはずだが? 聞いてないか?」
レオンが冷静に指摘する。
「そういえばいたな、戦場じゃランクがすべてだとか言ってた奴が。スタンピードの時だったか。なるほど、お前も同じくランクで戦う口か?」
ゴディスが言葉を詰まらせる。
その場の空気が一瞬ピリついたが、レティシアがクスッと笑って、弓の弦を鳴らした。
「まあ、レオンの言うとおりだよ。ランクで“影”が消えるなら、とっくに勝ってるでしょ?」
セレナは息をつき、剣を構え直した。
「まあ、いいでしょう。……けど、気をつけて。今のところ、攻撃はまったく通用しない」
レオンは肩を竦めてみせる。
「効かないなら、効かせるだけだろう?」
黒い触手がうねり、広場を覆い尽くそうと迫る。
「じゃあ、試し斬りといくか」
レオンは黒鉄の剣を片手に軽く肩を回し、“影”の正面に飛び込んだ。
剣閃が閃き、鋭い斬撃が“影”を裂く──だが、すぐに形を取り戻す。
「……全く手応えなし、か」
“影”から伸びる触手を避けつつ、レオンが小さく吐き捨てる。
すかさずレティシアが精霊魔法を放つ。
「〈風裂の矢〉!」
緑の光を帯びた魔力が放たれ、竜巻のような風刃が“影”を吹き飛ばす──が、すぐに再び蠢き始めた。
「魔法でも駄目か……」
レオンは肩越しに誰にともなく言う。
「なるほど、物理も魔法も効かない。こいつはまた、エライもんを引っ張り出してくれたもんだ。どこの誰だ? こんな馬鹿なことしたのは」
呑気な口調でそう言いながら、彼は笑った。
レティシアは、迫る触手を弓の一振りで払いつつ、少し困った顔をした。
「ちょっと困ったねぇ。でも、やるんでしょ?」
「ここまできたら、な。仕方ないか──」
レオンは剣の柄を軽く叩き、レティシアをチラッと見た。
「レティシア、念のために予備の剣を用意しておくよう手配してくれ」
「わかった、任せなさい」
そう言うと、レティシアは矢筒の中から矢を取り出す。
「これで少しは持つと思う。魔力ごっそりと持っていかれるから、あまり使いたくないんだけどね」
その間にも、“影”の触手が二人に襲いかかる。
レオンは寸前で身を捻り、剣を盾のように構えた。
「おっと、動きは厄介だが──速くはないんだな」
彼の剣が一閃し、触手を弾くが、切断はできず、すぐに再生する。
「やっぱり無駄か。じゃあ──少し遊んでもらおうか」
“影”が再び広場を埋め尽くす。
「──荒技でいくか」
レオンは黒鉄の剣を逆手に構え、足場を蹴る。瞬間、踏み込む音とともに石畳が砕け、彼の姿は闇の中心へと向かう。
「【崩刃疾旋】──!」
回転を加えた渾身の斬撃が連続で叩き込まれ、霧が爆ぜるように“影”が四散し、うねりながら吹き飛び、広場の一角が一時的に視界を取り戻した。
その隙を逃さず、レティシアが弓を引く。
「──これで、少しは効いてくれるといいけどね」
青白い魔法を込めた矢が風を裂き、核らしき一点を正確に射抜く。
ズガァァンッ!
光の衝撃が広がり、“影”が大きく退く。
冒険者たちから、驚きと安堵の声が上がった。
「消えた……!? 効いたのか!?」
だが、その期待は一瞬で砕かれた。“影”はまるで呼吸するかのように再び蠢き、さらに濃く、重く、広場に滲み出してきた。
触手が無数に伸び、広場を囲む建物に絡みつく。
ジュウウウ……
音もなく壁が崩れ、石や木材が粘液のように溶け落ちていく。
「……また、吞まれてる……!」
セレナが剣を構えたまま息を呑んだ。
「さっきの攻撃で一瞬後退させたのに、もう回復してるなんて……」
ゴディスが、盾越しにレオンの姿を見て顔をしかめた。
「あいつ、何者だ……? あの剣速は人間技じゃねぇ」
「彼女の矢も……今の魔道具? どこから持ってきたの……?」
セレナの声には驚愕と僅かな焦りが滲む。二人の実力を見誤っていたことに、気付いたのかもしれない。
“影”は再び次々と建物を呑み込み、広場の通路が狭まっていく。
レオンは肩越しに振り返り、笑った。
「──どうやら、遊んでる暇はなさそうだな」
レティシアが淡い笑みを返し、矢筒から新たな矢を取り出す。
「また一発、いくよ。少しでも時間を稼ぐんでしょ?」
「いや、ちょっと別の方法を試してみよう」
“影”の圧がさらに膨れ上がり、広場の空気が軋む。
レオンは一歩、前へ出て掌をゆるく掲げた。
「【原初:空間圧縮──断層】」
無音の刃──空間が斜めに折れ曲がるような歪みが走り、黒い塊が“線”で二つに裂けた。
一瞬、歓声が弾ける。
「やったか!?」
「今のは……斬ったのか?」
支部長が目を見張る。
セレナもゴディスも、驚きを隠せない。
しかし、レオンはわずかに首を振った。
「……いや、まだだな」
二分された“影”は、黒い墨を滲ませるように縁を震わせ、じわじわと寄り合い──再び一つへ収束する。
「駄目か!!」
誰かが叫ぶ。
レオンは続けざまに低く呟いた。
「【原初:空間圧縮──破砕】」
今度は圧縮点が弾け、“影”が粉砕された墨滴のように四方へ飛散する。
「今度は何だ?」
だが、飛び散った黒が薄い靄となって集まり、またも形を成した。
レオンは肩を竦め、少し困った顔で吐息を洩らす。
「これもか……キリがないな……仕方ない」
剣を静かに構え直し、低く言霊を落とす。
「【原初解放──“始まりの刃”】」
その瞬間、レオンの足元から淡い蒼光の輪が幾重にも走り、光は脊髄を駆け上がる奔流となって刀身へ注ぎ込まれる。黒鉄の剣が“別の位相”を映すかのように透きとおり、周囲の“影”がざわりと後退した。何かを感じたかのように。
「何だ? あれは?」
「わからん……」
(あまり人前では使いたくなかったんだがな……そうも言ってられんか)
レオンは呼吸を整え、奥義を発動させる。
「【奥義・原初:断罪閃】」
レオンは凄まじい勢いで幾度も剣を振るう。罪深き影を裂く光の審判剣。光は刃ではなく縫い目のように“影”を包囲し、複数の封鎖層・魔法干渉・擬似肉体化の“偽装”を次々と剥ぎ取っていく。
黒が薄絹のように剥離し、内奥から脈動する 赤い球が露わになった。表面を走る細い亀裂が、心臓の鼓動めいて明滅する。
「レティシア、今だ! あれを攻撃してくれ!」
「了解!」
レティシアは矢へ風と雷の精霊を同調させる。風が飛翔軌道を補正し、雷が矢そのものの威力と侵蝕性能を増幅。
放たれた矢は蒼白い尾を曳き、球体へ一直線に吸い込まれる。
──ドォッ!
音というより、空間の目張りが剥がれる衝撃。
赤い球は無音で砕け、光の粉となって散り、残滓が霧へ還る前に消失した。
黒い“影”──集合体だったものは、再び形を結ぶ“核”を失い、輪郭を保てず、薄明の中へ霧散していく。
数息の後、そこにはもう何も残っていなかった。
「……消えた……本当に……」
「さっきまであれほど……」
膝をつく冒険者の呟きが、静まり返った広場に溶ける。
ゴディスがゴクリと喉を鳴らした。
「何者なんだ、お前らは……」
レオンは剣を軽く払って光を収め、淡々と答えることもなく視線を坑道の方角へ向ける。
「さっき言っただろう? ただの剣士と魔法使いだと」
レティシアは安堵の笑みを浮かべつつも、矢筒の残りを指で数えた。
「今のは“ひと塊”……まだ全部が終わったとは限らない、か」
広場の縁──遠い路地の闇に、微かな冷気がまだ残っている。
セレナは息を吐き、意識を現実に引き戻した。
「──あの光で“偽装”が剥がれた……あの赤い球が核の一形態……か」
戦いは、まだ終局を約束してなどいない。
黒い“影”が完全に消え、広場には静寂が戻っていた──が、レオンの手にある黒鉄の剣は、光の余韻を残したまま粉々に砕け、地面へと崩れ落ちた。
「……また、一本か」
レオンは破片を足で払いながら、淡々と呟く。
「あと何本、駄目になるかな?」
レティシアが口元を歪め、からかうように問いかける。
レオンは肩を竦めた。
「なに、ここは鉱山都市、鍛冶師の街だ。いくらでも剣はあるだろう?」
その声は妙に気楽で、周囲の緊張を微かに揺るがす。
「これであの“影”を消滅できるなら、安いもんだ」
「じゃあ──快く提供してもらわないとね」
レティシアは軽く破片を蹴り、冗談めかして笑う。
レオンは割れた柄を投げ捨てる。
それを見ていたセレナとゴディスは、言葉を失っていた。
「……今の一撃で剣が粉々に……?」
「何者なんだ、あの二人……」
支部長もまた、二人から視線を外せずにいた。




