第201話 防衛線
夜霧が濃くなり、北西外縁の防衛線は、まるで息を呑むような緊張に包まれていた。
木製のバリケードが並び、弓兵と魔術師がその背後に陣取っている。矢羽根の先に聖油を垂らす者、詠唱の準備を整える者。誰もが張り詰めた顔で闇を見つめていた。
「……来るぞ」
レンの低い声が合図となった。
暗闇の奥で、黒い“影”が波のように蠢く。赤い光点がいくつも浮かび、まるで無数の瞳がこちらを見ているかのようだった。
「放て!」
支部長の号令とともに、一斉に矢が放たれ、炎の矢雨が闇を貫いた──が。
「な……効いていない!?」
矢は“影”をすり抜け、裂いたかに見えたが、すぐに“影”は元の形に戻り、さらに広がっていく。
「魔法班、撃て!」
魔術師たちの詠唱が重なり、火球や氷槍、雷撃が“影”へ降り注ぐ。轟音が夜を切り裂き、炎が爆ぜる──しかし、そこにいるはずの敵の輪郭は、何事もなかったように揺らめき続けた。
「……くそ、魔法すら効かないのか!」
一人の魔術師が声を上げると、次の瞬間、黒い“影”の腕のようなものがバリケードを突き破り、前列の冒険者を呑み込んだ。
「ぎゃああああああっ!」
“影”に飲まれた男は、光が吸い取られるようにしぼみ、灰となって崩れた。
「退け! 退けぇッ!」
誰かの悲鳴にも似た声が響き、冒険者たちが混乱しかける──
「動くな! 隊列を崩せば一気に押し込まれるぞ!」
ゴディスが前に出て盾を構え、“影”の触手を受け止めた。しかし、盾越しに冷たく、骨を軋ませるような圧力が伝わってきた。
「……こいつ……押し返せない……!」
セレナは剣を抜き、蒼い光を帯びた斬撃を振るう。
「〈光刃閃〉──!」
刃が“影”を裂き、一瞬だけ後退させた。だが、やはり致命的な手応えはなかった。
「一時的に散らせても、キリがないわ……!」
バリケード右端から悲鳴が上がった。
「くそっ、抜けられたぞ! “影”が後衛に──」
後方で弓兵が次々と襲われ、“影”に触れた者は、瞬く間に力を奪われ、砂のように崩れ落ちていく。
「レン、右をお願い!」
「任せろ!」
レンが“影”の後衛侵入を阻むため、素早く跳び回りながら短剣で“赤い光点”を狙うが、狙いをつけた瞬間には光点の位置が変わっていた。
たった数分の交戦で、前線は大きく崩れ始めた。
「死者が……もう十人近い……!」
「防衛線がもたない! 退却を──!」
混乱する冒険者の中で、支部長が声を張り上げた。
「まだ退くな! 奴の動きを観察しろ! 何か必ず弱点があるはずだ──!」
しかし“影”は休むことなく進み続け、波がじりじりと街の防衛線を侵食していった。
“影”が防衛線を突破するのは時間の問題だった。
セレナたちが再び剣と魔法で散らしても、“影”はまるで再生するかのように立ち上がる。
その中で、ひと際濃い“影”がバリケードの隙間をすり抜け、街路へ滑り込んだ。
「くそっ、街へ入ったぞ!」
レンが叫び、追おうとするが──
ジュウウウウウ……!
異様な音が響いた。
“影”が、近くの石造りの倉庫の壁にまとわりつくと、その部分がぐずりと崩れ、灰色の液体のように溶け出していった。
「な……石が……溶けている!?」
ゴディスの声が驚愕に震えた。
倉庫の壁面が数秒で半ば崩落し、鉄製の扉すら黒い染みのような痕跡を残して消えていく。まるで“影”そのものが物質の構造を崩壊させているかのようだった。
次の瞬間、“影”が倉庫の中に入り込み、木材や樽が触れた途端、音もなく溶解していく。
「なんだ……まるで世界の“形”が消されていくみたいだ……」
レンが息を呑む。
倉庫は“影”の広がりに耐えきれず、崩落と共に瓦礫を撒き散らした。
その瓦礫も、“影”に触れた部分からじわじわと煙を上げて消えていく。
「止めないと……街が丸ごと呑まれる!」
セレナが駆け出し、剣を振るうが、刃は“影”を切り裂いた直後に“何も斬っていない”かのような感触を残し、虚空を抜けた。
「効かない……このままじゃ防ぎようがない!」
ゴディスが盾を構えて立ちはだかるが、“影”が接触するたびに表面がざらりと削れ、まるで腐食していくかのようだ。
「……金属まで……!」
後方で誰かが叫ぶ。
「家が……! 家が崩れていく!」
視線を向ければ、路地の一軒家が壁ごと“影”に呑まれ、炎上もせず、音も立てずに“消えていく”ように姿を失っていった。
「住民は退避させろ! このままじゃ──」
支部長の指示が響くが、その声にも焦燥がにじむ。
セレナは歯を食いしばり、退く決断をした。
「防衛線を下げる! 第二線まで後退! 街路に結界を張って少しでも時間を稼ぐのよ!」
鐘が再び鳴り響き、冒険者たちは叫びながら後退戦を開始した。
“影”はまるで意思を持つかのように、崩れた建物の残骸をすり抜け、次の家へ、次の通りへとじわじわと侵食していく。
鐘の連打が夜空を震わせる中、防衛線は北西外縁から次々と崩壊していった。
「第三防衛線が突破されました! “影”が南西通りへ流入──!」
斥候の報告に、支部長の表情が一層険しくなる。
「……ここまで来たか」
支部長は短く息を吐き、重い声で命じた。
「全軍、街中心部への後退を開始! ここを最終防衛線とする。撤退しながら住民の避難誘導を続けろ!」
「で、ですが、ここを越えればギルド本館や中央市場が……!」
受付嬢が言いかけたが、支部長は首を振る。
「ここが最後だ。ここを守れなければ、街そのものが飲まれる」
街の中心広場では、冒険者たちと衛兵が総出で障壁を築き始めていた。
バリケードの代わりに、石畳を掘り返して組み上げた石壁、倒した馬車、補強した木材が次々と並べられる。
魔術師たちは広場を囲むように魔方陣を描き、光る紋章を刻み込んでいる。
「ここで全力の防衛陣を張る! 結界班、十重の防御層を用意しろ!」
「矢弾を中央に集めろ! 燃料をここだ、火矢を量産しろ!」
怒号と命令が飛び交い、戦場さながらの騒然とした空気が広がる。
セレナたち〈暁星の誓約〉は、広場の端に立ち、現状を見渡した。
「……街の中心で戦うなんて、皮肉なものね」
セレナが唇を噛む。
「“影”の侵入速度が早すぎる。もって一時間ってところか」
レンは地図を広げ、通りの退避ルートを確認する。
「住民の避難は?」
「ほとんど終わったが、まだ北通りに数軒残っているらしい。“影”の進路を封じる余裕は……正直、ないな」
レンが肩で息を吐く。
そこに支部長がやってきた。
「セレナ、レン、ゴディス──お前たち三人は前線の指揮を頼む。あの“影”は通常の攻撃が通じん。だが、時間を稼がねばならない」
「無茶を言うわね……でも、やるしかないか」
セレナは剣を握り直す。
「お前たちは街を守る最後の盾だ。私も本館で結界の最終調整に入る。──頼んだぞ」
支部長の声には覚悟の重さが滲んでいた。
広場の周囲には、臨時の治療所が設けられ、既に運び込まれた負傷者が呻き声を上げている。
冒険者たちは次々と自分の刃を研ぎ、矢を束ね、緊張に唇を噛んでいた。
「……俺たち、本当に勝てるのか?」
「勝つんじゃない、“生き延びる”んだ」
そんな囁きが、広場のあちこちで交わされる。
遠くで、また建物が崩れ落ちる音が響いた。
“影”がゆっくりと広場の方へ近づいている──その気配だけで、夜風がひやりと凍る。
──ゴォォォン……!
鐘の重低音が夜空に鳴り響く中、広場の外縁を覆う結界が微かに震えた。
「来るぞ──!」
誰かが叫んだ瞬間、“影”が通りをうねりながら迫り、広場の入り口へ雪崩れ込む。
バリバリバリッ!
最前列の魔方陣が霧と衝突し、白い火花が飛び散る。しかし、それはわずか数秒の猶予に過ぎなかった。霧の先端から伸びた“触手”が結界を引き裂き、闇の亀裂が走る。
「第一層、破られた! 第二層も……!」
「防げ──っ!」
ゴディスが盾を掲げ、“影”の触手を受け止める。だが、その表面がまるで腐食するかのように黒ずみ、熱を持って煙を上げた。
「……ッぐ……これは……長くは持たねぇ!」
弓兵たちが一斉に火矢を放つが、赤い軌跡は“影”の奥へ消え、何の手応えもない。
「効かない……! また効かない!」
後衛の魔術師が詠唱を完了し、雷撃が“影”を貫く。
ドォン!
雷光が広場を白く照らしたが、“影”は揺らぐだけで消滅には至らなかった。
「前衛、押し返せ! 結界が消える前に少しでも削れ!」
セレナが指揮を取り、蒼く輝く剣を振るう。
「〈光刃閃〉!」
鋭い斬撃が“影”を裂き、瞬間的に退いた。
「やはり、一時的に散るだけか……!」
レンが横で歯噛みし、霧の中心を注視する。
「赤い光点……! あの点滅、もしかして──」
“影”は広場の周囲の建物にまとわりつき、瓦屋根が音もなく崩れ落ちた。
「家が……! 避難が間に合わなかったら──」
「もう考えるな、戦え!」
別の冒険者が叫ぶが、その声がかき消されるほどに、“影”が押し寄せる。
前衛の一人が“影”に腕を取られた。
「やめろ! 離せ──ッ!」
次の瞬間、男は叫び声を残して灰の塊と化す。
「……嘘だろ……」
恐怖に顔を引きつらせる冒険者たち。
「後衛、下がって! 結界内で再配置!」
セレナの号令で隊列が後退するが、“影”はまるで生き物のように隙を縫い、追い立てる。
「くそっ、このままじゃ街が呑まれる……!」
ゴディスが盾を振り払い、“影”を弾くが、その背後の建物が崩れ落ちる。
「レン、弱点を見つけられないのか!」
「……あの赤い光点だ。あれに何度も攻撃を当てたが、すぐに位置が変わる。核があるのか、分体なのか……!」
「見つけるしかないわ。──やるわよ!」
セレナが前へ出て、剣の光を強めた。
広場の中心にいた支部長が叫ぶ。
「全員、ここを死守しろ! この一線を越えれば、街は終わる──!」
その声が、絶望に飲まれかけた冒険者たちをわずかに奮い立たせた。
広場を覆う黒い“影”は、もはや壁のように押し寄せていた。
前線の冒険者が一人、また一人と呑まれては、灰となって崩れ落ちる。
「……もう十人はやられたか……!」
ゴディスが盾を振り払いながら歯を食いしばる。
「くそっ、どこを斬っても通らない! 魔法も効かねぇ! こんなのどうしろってんだ!」
後衛の魔術師が声を上げ、炎の矢を放つが、“影”はそれを呑み込み、何事もなかったかのように広がっていく。
セレナは唇を噛んだ。
「弱点は……まだ分からないの、レン!?」
「赤い光点はあるが、狙っても消えやしない。そもそもあれが核かどうかすら不明だ……」
レンの声に焦りが混じる。結界の層は既に半分が消失し、後退を余儀なくされた。
だが、場違いな、ずいぶんと呑気な声が響く。




