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持たざる者は、世界に抗い、神を討つ  作者: シベリアン太郎


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第20話 敵前逃亡

 灰色の霧が立ち込める森の縁に、仮設の野営陣が築かれていた。

 辺境伯爵ギルベルトの部隊は既に展開しており、斥候や戦術魔導師、怪我人を収容する野営テントも整然と配置されている。

 そこへ、エリオット率いる五十名の騎士団が到着した。


「我が名は、アルテイル男爵嫡男エリオット・アルテイル。命を受け、参陣した!」


 堂々と名乗るエリオットに、領軍の兵たちは一瞬視線を向けたが、すぐに無言で作業に戻った。

 彼の横で馬を引いていた副官格の騎士が小声で耳打ちする。


「……反応が薄いですね。まるで我々を客将ではなく、足手まといとでも思っているような……」

「馬鹿なことを言うな。彼らは無骨なだけだ」


 エリオットは鼻を鳴らし、虚勢を張った笑みを浮かべた。

 そこへ、領軍の指揮官の一人と思しき初老の騎士が近づく。


「お迎えに上がりました。閣下は、既に前線の斥候網を指揮されております。代わりに状況説明を──」

「いや、そんなことより辺境伯爵のもとに案内しろ。私は命を受けて来ている。まずは主たる者と直接話をするのが礼儀だ」


 初老の騎士は一瞬だけ沈黙した。だが、すぐに静かに答えた。


「……それでよろしいのですな? 承知いたしました。では、前線までお連れします」


 その言葉に含まれた意味にエリオットは気付かない。かろうじて副官が首を傾げた。何か感じ取ったのかもしれないが、彼もまた何も言わない。


 森の奥、僅かな陽光さえ遮る古木の下に、ギルベルト辺境伯爵の姿があった。

 黒い外套を羽織り、部隊長格の者や、既に到着していた他の寄子貴族たちと地図を囲んで何事か協議していたが、エリオットの来訪に気付くと、彼を一瞥した。


「エリオット。来たか」


 その声は冷静で、挨拶の礼もない。


「お招きに預かり光栄に存じます、辺境伯爵閣下。〈聖騎士〉として、ぜひこの地の浄化に貢献でき──」

「余計な演説はいらん。ここはお前の大好きな、貴族たちの茶会ではない。()()だ」


 エリオットの言葉を切るように、ギルベルトは冷たく言い放った。

 そのまま地図の一点を指差す。


「状況説明は受けただろうな? お前の部隊は、東側斜面に潜む魔物の集団を叩く。地形はぬかるみ、視界も悪い。斥候の報告では、獣型の魔物、〈グラン・ザウル〉が群れている」

「……〈グラン・ザウル〉……?」


 実戦経験に乏しいエリオットは、その魔物の名前を聞いたことも、実際に見たこともない。だが──


「知っておるな? 身の丈三メートル。鎧をも喰い破る顎を持つ。騎士たちに戦い方は教え込んであるはずだろう? これより命令を出し、明朝には行軍を開始せよ」

「……は、はっ」


 こちらに有無を言わせぬ命令。エリオットは咄嗟に返事をしたが、正直状況が把握できていない。最初に状況説明を断った報いが既に影響していた。だがそのことに気付かないほど〈剣聖〉の威風に完全に呑まれ、背筋には冷たい汗が流れていた。

 その後、指示された受け持ちの場所に向かうも、何をすればいいのかわからない。適当に陣を張り明日の行軍に備えるだけだった。そして、その様子は逐一ギルベルトに報告されている。


「放っておけ」


 報告を受けたギルベルトが放ったのはその一言だけだった。既に彼は、エリオットを戦力として見ていない。他の戦力で対応できるよう備えていた。



「前方、敵影確認! 数十体、こちらへ向かってきます!」


 斥候の叫びと同時に、森の奥から地響きのような唸り声が響き渡った。

 枝を弾き飛ばし、赤黒い巨体が現れる。


「く、来たか……っ!」


 エリオットは馬上で剣を抜こうとした。だが鞘から引き抜いたその瞬間、剣を握る手が震えて止まらなかった。


(な、何だあれは……!?)


〈グラン・ザウル〉


 咆哮とともに現れたその魔物は、想像より遥かに巨大で、血に濡れた毛皮がねっとりと光り、牙はまるで剣のように鋭く、眼光は怨嗟に満ちていた。


 ──こいつは、人を狩る目だ。

 そう直感した瞬間、背筋に氷のようなものが走った。喉がひゅっと狭まり、手から力が抜けそうになる。


「隊列を保て! 突撃の号令はまだだ!」


 必死に声を張るが、その声はかすれていた。


(近い……速い……っ!)


 森の奥から湧き出るように、次々と現れる魔物たち。獣型、蛇型、甲殻を持つ異形の影──そのどれもが異様で、悪夢の産物のようだった。

 見ているだけで呼吸が浅くなっていく。息がうまく吸えない。


(これは……無理だ。戦えない。あんなの、スキルで何とかなる相手じゃ……!)


「……く、来るな……!」


 まるで願うように呟いた瞬間、先頭の〈グラン・ザウル〉が咆哮とともにこちらに突撃を始めた。

 大地が揺れる。重騎が駆けるような衝撃波が、身体を直接揺さぶってきた。


「エリオット様、ご命令を!」


 誰かの叫びに、エリオットは反射的に振り返る──が、その目は恐怖に見開かれ、焦点を結んでいなかった。


「ひ、引けっ! 後退だ!」

「なっ……!?」


 最悪の号令だった。たちまち隊は混乱し、陣形は瞬時に崩壊。

 命令を待っていた騎士たちが、逃げ惑う馬と魔物に押し潰される。


「ひっ……どけっ、どけぇ!」


 馬を振るって誰よりも先に逃げ出すエリオット。その顔は蒼白で、理性など既に飛んでいた。

 手綱を握る指先は硬直し、剣は鞘に納めることすら忘れて足元に落としたまま。


「エリオット様、お待ちください!  ここで退か──ぐあっ──」


 後方で叫ぶ騎士が、突進してきた魔物に跳ね飛ばされる。

 その姿を、エリオットは一瞬だけ振り返った。だが、何も言えず、ただそのまま逃げた。


(死ぬ……このままでは俺が死ぬ……!)


 それだけが、彼の脳内を埋め尽くしていた。

 配下を置き去りにしたまま、彼は誰よりも早く、恐怖とともに陣営を後にしていた。


 戦の翌朝、辺境伯爵ギルベルトは沈黙のまま、男爵家の死傷者の報告に目を通していた。

 戦死三十二、重傷者十名、軽傷者八名。

 エリオット・アルテイル──所在不明。だが、生き延びて自領に逃げ帰ったとの情報が、部隊の一人からもたらされていた。


 ライアスが進み出て問う。


「閣下、アルテイル男爵家への処置は?」


 ギルベルトは顔を上げることなく、ただ短く言った。


「使者を出せ。説明、いや、詫びに来るようにとな」


 それだけだった。声に怒気はない。

 むしろその静けさこそ、激しい失望と軽蔑の証であった。


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