第199話 “影”と帝国の侵入
Aランクパーティー〈遥かなる暁星〉は、冒険者ギルド・イングラード支部の隣にある酒場の一角で、分厚い地図と報告書を前にしていた。
連盟評議会から下された依頼は、帝国に譲渡された採掘区画の安全確保──すなわち魔物の駆除だった。
だが、その内容は街の空気を重くする。
「……これはあまり歓迎されない仕事になりそうね」
受付嬢から受け取った報告書を閉じ、リーダーの女剣士セレナが眉をひそめた。
「とは言っても、連盟からの指名依頼だ。失敗するわけにはいかんだろう?」
盾を背負う大柄な男、ゴディスが冷静に言い返す。
「もちろん、受けた以上は全力でやるわ。けど、街の連中が帝国に区画を奪われたと思っている以上、あまりいい顔はされないわね……」
セレナの視線は、酒場でこちらをチラッと見やる鉱夫たちの目を捉えていた。
その場の空気には、静かな敵意とも憂いともつかぬ視線が混じっていた。
「……おい、あれ、帝国絡みの仕事を受けに来た連中だろ?」
酒場の隅から、鉱夫らしき男たちの低い声が漏れてきた。
「イングラードを食い物にしてる連盟の犬さ。帝国のために働くなんざ、裏切りと変わらん」
「Aランク冒険者ってのは、節操なしに何でもやるんだな」
「だからこそ上に気に入られているんだろうよ」
「しっ。聞こえるぞ。何されるかわからんぞ」
ひそひそ声で交わされる言葉が、わずかに鋭く空気を裂いた。
セレナは気付かぬふりをして酒杯を口に運ぶが、背後の視線が刺さるようだった。
「……面倒ね」
「気にするな。ここで余計な争いを起こせば、連盟評議会どころかギルド本部の面目も潰す」
ゴディスが淡々と告げ、目の前の地図を指で叩いた。
「問題はここだ。帝国に譲渡された第七採掘区画──ここで目撃されている魔物の詳細が不明だ」
「鉱夫たちから直接話を聞くべきかしらね……でも、今の空気じゃ協力してくれるとは思えないわ」
セレナが小さく肩をすくめる。
「なら、ギルドの裏口から情報を拾うまでだ。幸い、ここには“耳が早い”奴らがいる」
そう言って立ち上がったのは、〈暁星の誓約〉の斥候、黒衣の青年レンだった。
彼はいつの間にか街の裏通りで噂を掴むのを得意としており、顔の広さはパーティー随一だ。
「……それと、もう一つ気になる話がある」
レンがわずかに声を潜める。
「第七採掘区画の奥、帝国が独占した坑道には深層があるらしい。元々誰も手を付けなかった危険区域だ。そこで鉱夫の一人が黒い影のようなものをを見たと騒いでいる」
「黒い影?」
セレナが眉を寄せる。
「詳しい話は、本人から聞くのが早いと思ってな。今夜、鉱山宿の裏手で会う約束を取り付けた」
「さすがだな。……ただし、街の連中に怪しまれないようにしろよ」
「ああ、任せとけ」
ゴディスが重々しく立ち上がり、剣の柄を軽く叩いた。
「始まりそうだな。これは、魔物退治だけじゃ終わらんぞ」
レンが立ち去ったあと、酒場に残ったセレナとゴディスは、さりげなく視線を交わした。
「……黒い影、ね」
セレナはグラスを置き、低く吐息を漏らす。
「まるで、ただの魔物じゃないって言ってるようなものじゃない」
「俺たちの経験上、“ただの魔物”なら帝国の兵士だけで片が付くはずだ」
ゴディスは腕を組み、地図に示された坑道の深部を指先でなぞる。
「深層──ここには、古い封鎖線があったという話だ。それを勝手に破ったとすれば……」
酒場の扉が軋む音を立てて開いて、一人の鉱夫が、荒い息をつきながら駆け込んできた。
「おぉぉいっ、大変だぁ……! 第七採掘区画で……奴が、出た──!」
顔は土と汗にまみれ、恐怖にひきつっていた。
「落ち着け、何があった?」
ゴディスが席を立ち、その肩をがっしりと掴んだ。
「し、深層の封鎖柵が……崩れて、“影”が……あいつが、こっちに出てくる!」
一瞬、酒場全体が凍り付いた。
誰かがグラスを落とし、酒の匂いが一層濃く漂う。
セレナは腰の剣に手をかけながら、わずかに唇を引き結んだ。
「ゴディス、レンを探して。──これはもう、待ってる場合じゃない」
「わかった。だが……セレナ、気を付けろ」
ゴディスはそう言うと、鉱夫を伴って外へ飛び出した。
セレナは酒場内の鉱夫たちの話に耳を澄ます。
「深層の封印が破れた……? これは決して偶然じゃない。帝国の動きも、関係しているかもしれないわね……」
夜霧が立ちこめる鉱山宿の裏手に、〈遥かなる暁星〉の面々は集まっていた。
「戻ったか、レン」
ゴディスが低く声をかけると、暗がりから黒衣の青年が姿を現した。
「例の鉱夫から話を聞いた。第七採掘区画の封印は確かに破られた……だが、それだけじゃない。帝国が“何か”を探して坑道の奥を掘り進めていたらしい」
「何を探しているっていうの?」
セレナが眉を寄せたその時──
ズズ……ッ
地面が不気味に揺れた。坑道の方角から、湿った土をかき混ぜるような重い音が響く。
「……来るぞ」
レンが素早く短剣を抜き、闇の奥へと目を凝らした。
やがて現れたのは、黒い霧のような“影”だった。
獣のようでも、人のようでもない。形を持たない塊が蠢き、目のような赤い光点がいくつも瞬いていた。
「な、なんだ……あれは……」
ゴディスが盾を構えるが、その声にはわずかな恐怖が滲んでいた。
次の瞬間、“影”が地面を滑るように迫り、セレナの剣が唸った。
「──はっ!」
銀の斬撃が霧を裂く。しかし……
「手応えが……ない!?」
“影”は霧散することなく、まるで剣をすり抜けるかのように再び形を成した。
「ゴディス、後ろだ!」
レンの声にゴディスが振り返るより早く、“影”が背後から襲いかかる。盾を構えても衝撃が体を抜け、焼け付くような痛みが神経を走った。
「こいつ……物理が通らねえのか!?」
「セレナ、退け! 今は応戦できない!」
レンが叫ぶが、“影”は増えていく。坑道の闇から次々と湧き出し、次第に一つになっていく。そしてそのまま街へ流れ出そうとしていた。
セレナは焦りを隠さず叫んだ。
「ここで防ぐ! 街に行かせたら終わりよ!」
彼女は咄嗟に指輪を握り、炎の魔法を解き放った。
「〈火焔輪〉!」
火の輪が“影”を包む──が、悲鳴すら上げず、“影”は淡く煙を上げただけで形を保つ。
「……嘘でしょ」
「退くぞ、セレナ! 今は情報を持ち帰るのが先だ!」
ゴディスが叫び、“影”を盾で弾きながら後退する。
レンは一瞬、坑道の奥に視線を送った。
(……まだ“何か”が奥にいる。あの“影”は、その気配の一部だ……!)
「急げ! 街が危ない!」
三人は必死に後退し、鉱山宿の灯りへと走り出した。
だが“影”は止まらず、まるで獲物を追う霧の波のように、じわじわと街へ迫っていく。
逃げる途中、坑道の手前で重装の気配が響いた。
「止まれ!」
鋭い声とともに、黒い甲冑に身を固めた兵士たちが闇から現れた。十数名。装備は精鋭そのもの、見慣れぬ紋章が肩鎧に刻まれている。
「……帝国の兵!?」
セレナの声が驚きに染まる。
イングラードに、帝国兵が立ち入ることを許可しない──それは連盟と帝国の取り決めのはずだった。
先頭に立つ銀仮面の隊長らしき男が、短く命じる。
「全員、構えろ! あの“影”を封じる!」
帝国兵たちは無言で隊列を組み、矢継ぎ早に符を取り出し、魔力を込める。光の網のような封印陣が地面に広がった。
だが──
ズズ……ッ!
“影”は網をすり抜け、兵士の一人にまとわりついた。
「ぐっ……な、何だ──!? ぐあああああ!」
鋼の甲冑越しに悲鳴が上がる。次の瞬間、その体は黒い“影”に呑み込まれ、骨ごと粉々に砕ける音が響いた。
「嘘だろ……!」
ゴディスが思わず声を漏らした。
隊長が怒鳴る。
「退け! 囲むな、散開──!」
だが、散開した兵士たちは逆に狙われ、次々と“影”に飲み込まれていく。魔術障壁すら無意味で、ただ防御を貫通するように“影”が突き抜ける。
「ぐあっ!」
「や、やめ──!」
暗闇に悲鳴が散った。
セレナは、恐怖を押し殺して呟いた。
「……帝国の精鋭部隊が、あれほど簡単に……」
「何者だ、あの連中。イングラードに帝国兵がいるなんて……」
レンの目が冷たく光る。
「秘密裏に動いていたってことだろう。だが、この様子じゃ連中も正体を把握していない」
銀仮面の隊長が、必死に一振りの黒剣を“影”に叩きつけた。剣が赤く閃光を放つ──
「──消えろッ!」
轟音と共に“影”がわずかに後退するが、霧散することはなかった。
「撤退だ! この場は放棄する!」
隊長が叫び、数名の生き残りと共に退いていった。
セレナたちは、闇の波を前に立ち尽くした。
「……あれほどの部隊でも駄目なのね」
「街へ向かう前に、ギルドへ急げ。防衛戦の準備をしなきゃ、全員飲み込まれる」
ゴディスが低く言い放ち、彼らは“影”を避けるようにイングラードの街へ駆け戻った。




