第19話 男爵の思惑
厚手の封蝋がされた書簡が、無言のまま机上に置かれた。
文面に目を通したアルテイル男爵の表情が、徐々に険しさを増していく。
「……“魔の森”、だと?」
封筒には、ギルベルト辺境伯爵の紋章がはっきりと押されていた。
王国北方に広がる“魔の森”──そこは王国でも屈指の危険地帯であり、近年は魔物の増殖が報告されている地だ。
『“魔の森”にて魔物の間引きを行う。王国貴族としての責務を果たせ。五日後、現地合流とする』
それが、辺境伯爵家からの要請であり、命令に近い通達だった。
「……寄子である以上は逆らうことは出来ん。だが……」
アルテイル男爵は書状を折り、静かに机に叩きつけるように置いた。
「こうまで傍若無人な態度とはな……!」
要請とは名ばかりの物言い。それが無性に腹が立つ。しかし、数瞬の思考を挟み、ある閃きが浮かぶ。
(この機を逃す手はない)
彼はさらに思案を巡らせる。
息子──エリオット。神より授かった〈聖騎士〉のスキルを持ち、その名は王都にも届いているはずなのだ。だが、アルテイル男爵家が目指すところ──王都中央からの反応はない。
その理由は明らかだ。エリオットにいまだ目立った武功がないこと。盗賊退治など、そこらの冒険者でもやれるようなことでは意味がない。武勲なき〈聖騎士〉など、ただの看板に過ぎぬ。
(ここで一つ、目立った功績を立てさせねば。そうすれば辺境伯爵にも恩を売れるし、王都からも注目されよう。その後は……!)
男爵は筆を取り、家中に通達を出す。五十名の騎士を選抜し、装備を整えさせるよう命じた。
そして間もなく──執務室に、息子エリオットが呼び出された。
「父上、御用でしょうか?」
悠々とした足取りで現れたエリオットに、男爵は厳しい視線を向けた。
「エリオット、お前に命ずる。五日後、辺境伯爵のもとに向かえ。“魔の森”の魔物を討伐する手助けをせよ。騎士五十名をつける。これがお前の正式な初陣となる」
「……“魔の森”、ですか?」
エリオットの眉がわずかに動く。だが男爵は、彼の表情の揺らぎに気付いていない、あるいは無視したのか。
「〈聖騎士〉スキルとは、聖なる力でもって邪悪を祓う者の力だ。そのスキルをいただきながら、何の武功も立てぬままでは、それこそいい笑い者だ。貴様がそれを証明せねば、家の未来も覚束んのだ」
「……心得ました」
エリオットは微かに唇を引き結び、形式だけの返事を返す。
「ふん……必ずや結果を持ち帰れ。正式な出陣である以上、しっかりと記録にも残る。くれぐれも、辺境伯爵に借りを作るような真似だけは、絶対にするな。わかったな?」
「はい。ご期待に沿えるよう、尽力いたします」
その声音にはさほどの重みは感じられない。
だがアルテイル男爵は気付く様子もなく、ただ勝手に満足げに頷いた。
(これでよい。〈聖騎士〉のスキルにふさわしい武勲を立てれば、我が家も……)
既に男爵の脳裏には、王都の上級貴族たちの注目を浴びる息子の姿が、まるで現実のように浮かんでいた。
だが──それが儚い幻想に過ぎなかったことに、彼が気付くのは、もう少し先の話である。
◆
出陣の日の朝。エリオットは、豪奢な白銀の鎧に身を包み、館の中庭に整列する五十名の騎士たちを見下ろすように一瞥した。その表情は誇らしげで、どこか自信に満ちているように見えた。
「では、行ってまいります、父上」
「うむ。誇りを忘れるな。〈聖騎士〉のスキルに恥じぬ戦いをしてこい」
アルテイル男爵は、息子の肩に手を置いて力強く言った。周囲の家臣たちも、未来の英雄を見送るように頷き、目を細める。
だが──その鎧の下、堂々と胸を張るエリオットの心中は、凍りつくような不安で満たされていた。
(……なぜ、今更)
辺境伯爵ギルベルト──冷淡で、理知的で、力なき者にはまるで興味を示さない男。
以前、伯爵のもとに招かれた際、訓練場にて騎士団から模擬戦を求められ、不覚を取った。あの時の冷ややかな眼差しと短い言葉は、今でも忘れられない。
(あれ以来、一度も呼ばれたことはない。むしろ、嫌われているとさえ思っていた)
そんな男が、自分にも出陣要請を出してきた。しかも、騎士五十名を連れて“魔の森”へ向かえと。
まるで何か、裏があるような気がしてならない。
「……いや、好機だ、これは」
小声で自らに言い聞かせるように呟く。
名誉挽回の機会、いや、ここで結果を出せば、真の〈聖騎士〉として認められるかもしれない──そう思いたかった。
(だが、“魔の森”か……あそこは、噂では、あの辺境伯爵の領軍でさえ慎重に進めと言われるような場所じゃないか)
不安が膨らんでいく。だが、それを顔に出すわけにはいかなかった。
配下の騎士たちは、自分が〈聖騎士〉であることを信じて従ってくるのだ。臆した姿を見せれば、即座に士気が崩れる。
「出発する。列を整えよ」
高らかに命じる声だけは、堂々としていた。
馬に跨るエリオットの姿は、はた目には意気揚々とした若き英雄そのものに映ったかもしれない。
(大丈夫……あの“落ちこぼれ”にも入れる所だ。何も問題などない……)
だが、その胸中に広がるのは、誇りではなく──重く、冷たい予感だった。




