第188話 帰還
夕刻の風が吹き抜けた。
耳を満たしていた咆哮と怒号は消え、今あるのは呻き声と鉄の軋む音だけだ。
地面は血と泥で黒く染まり、積み重なった死骸がまだぬるぬると湯気を上げている。腐臭と焦げた毛の匂いが風に乗って漂った。
「搬送終わった班から報告して!」
セレナが記録員に指示を飛ばす。羊皮紙に赤い印が増えていく。
「戦死……十八。重傷三十二。軽傷含め六十超」
「……予想より少ないけど、C以下の損耗が大きいわね」
彼女の声に、記録員が小さく頷く。
担架で運ばれる冒険者の顔には布が掛けられ、血で固まった髪が覗く。仲間がそれを見送り、唇を噛み切るように無言で背を向けた。
「矢束、あと何束ある?」
「十も残ってません!」
「投げ槍は?」
「半分折れた!」
物資係の声が飛び交い、緊急で補給列が前線へ駆ける。
死骸を積んだ山には油が振り撒かれ、火打ち石の音が響いた。
「今は燃やすな、煙で敵を呼ぶ!」
「じゃあ後方に移すぞ!」
長柄の鉤で血まみれの肉を引きずり、端へと積む作業が始まる。
後衛の白布テントで、治癒師たちが必死に手を動かしていた。
「止血魔法、もう魔力が切れる!」
「薬草班、代わりに治療を!」
呻き声と怒声が交じる中、レティシアが入っていく。
「軽傷の処置はこっちでやるわ。……あなたたち、座って」
矢筒を脇に置き、彼女は回復・再生の植物魔法を施す。掌から淡い光が溢れ、裂けた皮膚を閉じていく。
最前線を見渡し、ガイウスが低く吐き捨てた。
「三波でこの消耗か。あと二度来られたら、半分以上死ぬな」
「このままじゃ後退線の維持も危うい」
セレナが腕を組む。
「夜間の波にも警戒しないと。……魔石灯を増設して、後方にもう一層防壁を築く」
「人手は?」
「志願者を募る……だが」
「皆、動ける状態じゃないわね」
二人の視線が、黙って剣を拭うレオンの方へ滑った。
彼の対応がなければ右面は崩壊、全滅していた──それは誰の目にも明らかだった。
だが、ガイウスもセレナも、すぐには信じることができないでいる。
休息所の影で、血にまみれた冒険者たちが囁き合う。
「あの剣士、まだ本気出してないって顔だったぞ……」
「ああ、まったく息も切らしてなかった」
「矢を射ってたエルフも異常だ。魔法もすごかったな。あれでCとか本当かよ?」
「ギルド、こっそり昇格打診してんじゃねぇの?」
その声は次第に確信めいた色を帯びていく。
「レティシア、怪我は?」
「あたしはかすり傷程度。レオンは?」
「……無傷だ」
レオンは短く答え、遠くの森を見据えた。
その奥から、また低い咆哮が微かに響いている。
薄明かりが森を包み込む頃、戦場は一時の静寂に包まれた。
誰もが疲労と緊張で重く息をつく。
「交代警戒に入る。前線を二手に分け、半数は休んで」
セレナの指示が飛び、戦士たちが順に巡回路へ出ていく。
重く腐敗臭を含んだ空気の中、C・Dランクが縄と杭を手に、散らばった死骸の回収を始めた。
「燃やせるものはすぐ燃やせ!」
指揮官の声が響く。火を囲み、膝をついて休む者もいる。
一方、戦線の外縁では〈鉄顎の咆哮〉の数名が汚名を返上すべく、魔物の残党を追いかけていた。
「まだいる。もう一度、掃討を!」
鋭い剣技が月光に反射し、倒れた魔物が再び息絶えた。
闇は深まるが、森のざわめきは弱まっていった。
誰もが警戒の目を光らせ、焚火の周囲に集まる。
「一晩は油断するな。魔物は明け方に動くこともある」
ガイウスの言葉に、冒険者たちが頷く。
数時間後、夜明けに近づくにつれ、異変は静まった。
セレナが指揮所に戻り、報告を受ける。
「残党はほぼ殲滅。動きも止まった。撤収しても大丈夫だろう」
誰もが疲労困憊の状態。ギルドの職員も、予備の装備を整え始めた。
レオンは剣を磨きながら、静かに辺りを見渡す。
「一応、終わったか……」
レティシアが横で肩を叩く。
「まだ完全じゃないけど、これで街に帰れるね」
「ああ、しばらくはゆっくりしよう」
ゆっくりとした足取りで、補給部隊から森を抜けていった。
朝日の光が街の輪郭を浮かび上がらせる。
ざわついていた街も、今日はいつもの日常を取り戻すだろう。
それでも、誰もが今回の戦いの重さを胸に刻んでいた。
◆
夕闇が迫る頃、アスラン・ヘイブンの街門に、疲弊しきった冒険者たちの列が戻ってきた。鎧は泥と血にまみれ、剣は刃こぼれし、盾には幾筋もの亀裂が走っている。それでも、生きて帰ったという事実が、彼らの足を前へと進ませていた。
ギルド本部の扉を押し開けると、そこには既に数名の職員と治癒師が待機していた。
「全員、よく戻った! 負傷者はあちらだ、すぐに治療を始める!」
怒鳴るような声が響き、血を流す者や歩くのもやっとの者が次々と奥へ運ばれていく。
広間の中央に、〈雷槍の牙〉のガイウスと、〈遥かなる暁星〉のセレナが立った。二人は鎧を外す暇もなく、ギルドの幹部たちに報告を始める。
「第一波、百五十を超える群れ。ウルフ、ゴブリン系が主力、泥蛇、オーガとその亜種数体を確認。撃退に成功したが、死者三名、負傷多数」
低い声でガイウスが告げる。
「第二波は……さらに厄介だったわね」
セレナが続ける。淡い金髪に血がこびりつき、疲労で瞳が沈んでいた。
「オーガ亜種複数体、牙の巨獣が先頭に。泥蛇も多数現れた。こちらも辛うじて食い止めたけど、犠牲はさらに増えた。……そして、第三波」
報告を聞く広間の空気が、一層重くなる。
「第三波は帯状突進型。死骸を踏み越えて侵攻。戦線の維持が限界だったが……」
ガイウスが深く息を吐いた。
「全戦力を集中し、殲滅を確認。──スタンピードは一応終息した」
その言葉に、広間のあちこちで微かな安堵の吐息が漏れる。しかし、それが祝福に変わることはなかった。
「死傷者の確認に入る。現在判明している死者、十八名。負傷者、七十名超……」
セレナが紙を握りしめたまま言葉を詰まらせる。
「……治療班を増やせ!」
「回復薬の在庫、あとどれくらい残ってる!?」
「今、仕入れに走らせてます!」
命令と怒号が飛び交う中、広間の一角では、簡易ベッドが並べられ、治療場が設けられた。
癒しの光が瞬き、呻き声が低く続く。誰もが疲弊しきっていたが、まだやるべきことは山積みだった。




