第186話 第二波
風が止んだ。森の奥は、またも暗く沈黙している。
誰かが呟く。
「……次は、いつ来る」
返事はない。代わりに、遠雷のような地鳴りが、ゆっくりと近づいてきた。
沈黙は長く続かなかった。
森の奥──その暗がりから、再び地響きが伝わってくる。今度は、明らかに重い。
「……おい、音が違う?」
槍を握る男が、固く唇を噛む。
木々の梢が揺れ、鳥の群れが飛び立つ。まるで、森全体が後ろから押されているかのようだった。
「第二波だ、隊列を締めろ!」
ガイウスの怒声が響き、前列が剣と槍を構える。
セレナが、右側面へ鋭い視線を走らせた。
「〈鉄顎の咆哮〉、もう一度右側を抑えなさい。──さっきの失態、ここで取り返せるかどうかよ」
低く、冷ややかな声。
〈鉄顎の咆哮〉のリーダーは、唇を噛み切る勢いで頷いた。
「……うるせぇ、言われなくてもやってやる」
その背中には、もはや強がりではなく、必死な決意が滲んでいた。
木々の影が揺れた瞬間、地面を打つ音が一気に近づく。
先頭はやはり、フォレストウルフ──だが、数が違う。前より倍、いや三倍はあるだろう。
その後ろに、ゴブリンの集団がいる。前波で削られた穴を補うかのように、さらに湧き出してくる。
そして、影の奥で動く巨大な質量──オーガだ。三体。
「オーガ増えてるぞ!」
叫びが飛ぶ中、さらに別の異音が混じった。
──ズズ……ズルリ……。
湿った地を這う、嫌な感触が空気を伝う。
「泥蛇もいるぞ、足元に気を付けろ!」
声が飛んだ瞬間、右側の前線で杭を打っていた冒険者が悲鳴を上げた。
「足が、抜けねぇ――!?」
見れば、足元の泥が生き物のように膨らみ、男の脚を絡め取っていた。その下で蠢く灰緑色の巨体。牙を剥き、ぬらついた粘液が草を溶かしていく。
「杭を放せ! 後ろに飛べ!」
ガイウスの怒鳴り声に、男は必死に跳ね退く。次の瞬間、泥蛇の顎が杭ごと地面を噛み砕き、木片を吐き出した。
泥の範囲がじわじわと広がり、右面の足場が崩れていく。
「陣を固めろ! 泥地に引き込まれるな!」
セレナが怒声を飛ばすが、右側にいる〈鉄顎の咆哮〉は必死だ。
「クソッ……囲まれるな! 間合い取れ!」
リーダーが叫び、部下たちは防御を固めつつ泥蛇を避ける。しかし、背後からゴブリン、横から狼が押し寄せる。
「やべぇ、止めきれねぇ――!」
盾が弾け、槍が折れる。
左面では〈鋼の熊爪〉が必死にオーガを押し止め、前列中央で〈雷槍の牙〉が雷撃を放つ。
稲妻が群れを焼き裂き、灰色の毛皮が煙を上げる。しかし、焼けた屍の隙間を縫うように、さらに群れが押し寄せてきた。
「──押し返せ! この線を死守しろ!」
怒号と血の匂いが戦場を覆う中、レオンは右を見た。
──〈鉄顎の咆哮〉が崩れるのは時間の問題だ。
「レティシア、右だ」
「了解!」
弓弦が鳴り、矢が風を裂いて飛ぶ。その一本は泥蛇の顎に突き刺さり、呻きのような音を漏らした。
レオンは剣を握り直し、駆けた。
草を踏む音が、戦場の喧騒の中で不自然に軽い。
右側面が、音を立てて崩れた。
そこへ泥蛇が杭を噛み砕き、ぬめった体をうねらせて突進する。そこへフォレストウルフの群れが雪崩れ込み、〈鉄顎の咆哮〉の隊列は瓦解した。盾を持った男が叫び声とともに吹き飛ばされ、そのまま狼に喉を裂かれる。
「右が抜けた! 右面、完全崩壊!」
指揮役の悲鳴が戦場に響く。
オーガが二体、裂けた隙間に突入した。巨大な棍棒が唸りを上げ、冒険者の列を粉砕する。
「押さえろ、押さえろッ!」
ガイウスが怒鳴るが、その声に応えられる余力はなかった。
──泥蛇、オーガ、狼の奔流が、中央をも飲み込み始めている。
セレナの盾列も揺らぎ、〈鋼の熊爪〉が必死に防御を固める。
「このままじゃ……後衛まで殺される!」
誰かが吐き捨て、次の瞬間、救護所近くで負傷者が引きずられる。血に濡れた土に悲鳴がこだまする。
──これ以上はもう持たないな。
そう悟った時、レオンは低く息を吐いた。
「……仕方ないな。働くとするか」
立ち上がると同時に、視線の先で倒れている弓使いに歩み寄る。男は既に命を落とし、泥に半身を沈めていた。
「悪いな……使わせてもらうぞ」
そう呟き、矢筒を外す。血と土に汚れた矢羽根を確認しながら、後方にいるレティシアへ放った。
「レティシア、これを使え!」
「わかった!」
彼女は矢筒を抱え、すぐに弓に矢を番え直す。
レオンは剣を抜き、ゆっくりと右側──崩壊した戦線へ歩を進めた。
瓦解した陣形の中央、〈鉄顎の咆哮〉のリーダーが膝をついていた。鎧はひしゃげ、肩口から血を流している。それでも必死に立ち上がろうとするが、迫るのは三体の泥蛇。背後では狼が牙を剥き、オーガの影が覆いかぶさる。
その光景にレオンが歩み寄り、淡々と声を落とした。
「──戦場じゃ、ランクがすべてじゃなかったのか?」
リーダーがはっと顔を上げる。
「どうだ? ランクの威光は魔物に通じたか?」
冷ややかな眼差しとともに、剣が横薙ぎに閃いた。
音はなかった。ただ、ぬめる肉と骨が一度に裂ける感触だけが残った。
泥蛇の首が三つ、空を舞う。巨体は痙攣しながら泥に沈み、血が黒い沼のように広がっていく。
次の瞬間、レオンの足元から伸びた影が弾け、飛びかかった狼が真っ二つに裂けた。
目の前で繰り広げられた光景に、〈鉄顎の咆哮〉のリーダーは言葉を失った。
これは、人間の動きか?
レオンは視線を上げる。まだ、オーガが迫っている。
「……退くな。ここで抑える」
その一言に、〈鉄顎の咆哮〉の男は反射的に剣を握り直した。
泥蛇を斬り捨てた瞬間、空気が一段と重くなる。
影が覆いかぶさった。
「……っ!」
〈鉄顎の咆哮〉のリーダーが反射的に身を縮める。その前で、オーガの巨体が棍棒を振り下ろした。
──地面が割れた。
棍棒が叩きつけられ、杭も死骸も一緒に土に沈む。破片と泥が弾け飛ぶ中、レオンの姿は ──そこにはなかった。
「な──」
〈鉄顎の咆哮〉のリーダーが言葉を紡ぐより早く、背後で風が鳴いた。
レオンは棍棒を避け、オーガの懐へ滑り込んでいた。剣が逆光を裂き、音より速く閃く。
ズシャッ──!
巨体の膝が砕け、オーガが吠える。だが終わりではない。
「ハッッッ!」
低い声とともに、レオンの剣が横に走った。
膝を崩した巨影の喉元が、音もなく割れた。
血飛沫が弧を描き、オーガはその場に沈む。
「レオン、左っ!」
レティシアの声と同時に、別方向から飛びかかるフォレストウルフの額に矢が突き刺さる。
風を裂く二射目が続き、泥蛇の目を貫いた。
矢筒を確認した彼女は小さく舌打ちする。
「あと……六本!」
次の射撃は、ためらいなくゴブリンの弓兵へ──外れない。
後方、救護所の影で血を拭っていた冒険者が呆然と呟く。
「……オーガを、膝落として……一撃で……?」
「おい、あれ誰だ」
「レオン、って……Cランクの?」
「Cであのオーガ斬れるか? 亜種だぜ? いや、見ろよ……動きが別格だ」
別の者が低く言う。
「剣筋、見えたか?」
「いや、残像だけだ……」
声は次々と広がり、やがて誰かが吐き捨てる。
「……Cランク、ってのは建前じゃねぇのか?」
噂は炎のように戦場を駆け抜けた。
剣を軽く振り払い、赤を散らすレオンは、倒れた〈鉄顎の咆哮〉のリーダーを見下ろした。
「立てるなら、立て。ここはまだ終わりじゃない」
その声に、リーダーは言葉を失ったまま頷く。背筋を震わせ、剣を握り直した。
大きく息を吐く音があちこちで重なった。
泥蛇の粘液でぬめった地面には死骸が折り重なり、オーガの血が黒く水溜まりを作っている。森の奥からの圧力はいったん弱まり、散発的なゴブリンと狼が走り出ては射掛けられて倒れた。
「右面、脅威排除確認!」
「中央、死体処理班前へ!」
怒号が飛び交い、第二波はどうにか押し止められた。
セレナが指揮を引き継ぎ、次々と指示を出す。
「死骸を堆積させて胸壁に。燃やすのはまだ早い、煙で視界を失う。杭を再設定──泥地は避けて後退線を一本作る!」
C・Dランクが縄と杭を抱えて走る。
〈鋼の熊爪〉は左面補強後、中央へ移動して穴埋め。
〈鉄顎の咆哮〉は負傷者の数を抱えながらも、後備列で再編成に回された。
右側の血溜まりで、Dランク治癒師たちが必死の手当て。
「止血済んだ! 担架前に!」
「軽傷者は武器点検に戻れ!」
ガイウスが泥を蹴って近づき、崩れた右側面と死骸の山をざっと見回す。
「……ここを押し返したのは誰だ?」
誰かがレオンを顎で示す。
「そこの剣士だ。Cランクの……レオン」
ガイウスは一瞥し、剣に残った血と切断面を見て目を細めた。
「C、ねぇ……」
あからさまに信じていない声音。
そこへセレナが合流し、報告書板を抱えた事務役から負傷状況を受け取る。ちらりとレオンへ視線を移し、眉を上げた。
「中央が持ったのは、右が再崩壊しなかったからよ。助かった」
それだけ告げ、すぐ指揮へ戻る。だが去り際にガイウスへ小声。
「……本当に彼が?」
「……わからん。偶然だろう。Cランクだぞ?」
救護所裏。
「やっぱCじゃないって」
「A予備枠か?」
「〈鉄顎の咆哮〉の穴、埋めた上でオーガ落としたってよ」
「次の昇格、決まりじゃねぇか?」
囁きがさざ波のように広がり、レオンという名が戦場全体に行き渡っていく。
レティシアは矢筒を抱えて戻り、半分ほど残った矢を確認して息をついた。
「なんとか持ち直したね……」
「まったく……余計な仕事を増やしやがって」
レオンが忌々しそうに愚痴をこぼす。
「まあまあ、そのぶん、報酬が増えるかもしれないよ?」
「だといいなぁ。それでうまいもんが食いたいな」




