第185話 第一波
森の奥で、木々がざわめき、低い唸り声が混じった風が吹き抜けた。
──魔物が、来る。
最初に崩れたのは音だった。
森の奥から、枝が折れる乾いた音。続いて、地面を叩く無数の蹄と爪の震えが、土を通して足裏に上がってくる。ざわり、と風が鉄臭い湿気を運び、誰かの喉が鳴った。
「……来るぞ」
ガイウスの低い声が、防衛線の列を固める。
次に鳥が散った。木冠から黒い影が噴き上がり、空へ逃げる。空白になった緑の隙間から、暗い影が波のように押し寄せるのが見えた。
それは一頭、二頭ではない。森の縁全体が、揺れている。
最初に飛び出したのはフォレストウルフだった。灰と苔色の毛並みを逆立て、泡立つ唾を垂らしながら雪崩れ込む。群れが重なり合い、先頭が転べば後続が踏み越えてくる。
その合間を、背の低い影が抜ける。
「ゴブリンだ! 右面!」
汚れた革片と骨槍を振り回し、甲高い悲鳴じみた叫びを上げながら走ってくる。数を数える意味はない──多い。
木々を割って現れた黒緑の巨影に、列のあちこちで息が詰まった。
「オーガ……え? 亜種?」
丸太の棍棒を肩で引きずり、突進するたびに小枝と葉屑が舞い上がる。後続の個体がぶつかって転び、さらにその上を別の魔物が越えていく。秩序などない。ただ前へ。
ぬらり、と地面が動いた。
「待て、あれ……泥蛇か!?」
以前、街近郊の依頼でレオンたちが討伐した粘液質の大蛇によく似た体表──だがあの時よりは小振りな個体が複数、湿地帯から押し出される形で群れに混ざり、ぬかるみを引きずりながら前進してくる。粘液が草を溶かし、後ろから来たゴブリンが足を取られて転倒した。
種の混在。進行方向は一本。速度はまちまちだが、全体としては確実に北上している。
──典型的なスタンピード。
レティシアが小声で呟く。
「……止まる気、ないね」
「ああ。押し返さなきゃ、そのまま街まで来るぞ」
レオンは剣を抜き、光の線が一瞬走った。
前線では〈雷槍の牙〉が構えを取る。〈遥かなる暁星〉が盾列を下げさせ、射撃合図を待つ。左右で〈鋼の熊爪〉と〈鉄顎の咆哮〉が位置を固め──その〈鉄顎の咆哮〉の一人が乾いた笑いを漏らす。
「見ろよ……冗談抜きで群れだ。こりゃ逃げ場ねぇぞ」
笑いはすぐ途切れ、唾を飲む音だけが残った。
森影から次の層が現れる。角張った甲殻を背負う小型獣、羽音を立てる毒蛾、名も知らぬ 雑多な生き物たちが、後ろから押され、前の群れに混ざり込み、うねりとなって拡がる。
風向きが変わり、血と獣脂と湿った土の匂いが一気に広がった。
誰かが呟く。
「……これが本物のスタンピード、か」
号令が上がる寸前──レオンは短く息を吸い、レティシアと視線を交わした。
「行くぞ」
「うん!」
「──撃てぇっ!」
轟音とともに、空が裂けた。
〈雷槍の牙〉のガイウスが振り下ろした雷槍から、稲妻が奔り、先頭のフォレストウルフを焼き尽くす。爆ぜる閃光と焦げた毛皮の臭いが広がり、前線を固めていた弓兵や魔術師たちが一斉に射撃を開始した。
矢が雨のように降り、火球と氷槍が尾を引きながら飛び交う。
次の瞬間、〈遥かなる暁星〉の盾列が前進した。
「前衛、押し返す!」
リーダーのセレナが鋭い号令を放ち、白銀の盾が一斉に地面を蹴る。槍と剣が突き出され、狼とゴブリンが次々と串刺しにされていった。
その光景に、後方の冒険者たちは一瞬息を呑む──が、油断は許されない。
横合いから、巨躯が突っ込んできた。
「オーガだ! 右面っ!」
〈鉄顎の咆哮〉の面々が武器を構え、必死に応戦する。
「おらぁ、下がれッ!」
金属の刃と骨の棍棒が打ち合い、鈍い衝撃音が飛び交う。オーガの一撃で盾が吹き飛び、地面に叩きつけられた男が呻き声を上げた。
「リーダー、こいつら押しきれねぇ!」
「踏ん張れ! 退いたら後ろが──うっ!?」
叫ぶ間もなく、二体目のオーガが突進し、防衛線を崩壊させた。〈鉄顎の咆哮〉の列が割れ、そこから狼とゴブリンが一気に雪崩れ込む。このままでは後方に突っ込んでくるだろう。
「ちっ……たかがオーガ程度で情けない連中だ」
レオンは立ち上がり、剣を抜いた。陽光を受け、白銀の閃光を放つ。
──音が消えたような錯覚ののち、次に響いたのは肉を裂く音だった。
飛びかかってきたフォレストウルフの首が、斜めに滑るように落ちる。レオンの剣は止まらない。二歩、三歩と踏み込み、狼とゴブリンをまとめて薙ぎ払う。血煙が舞い、後方に向かおうとしていた敵が一瞬で片付いた。
「なっ……誰だ、あいつ……!」
後方で見ていた冒険者の声が、驚愕に染まる。
「レティシア、射線は取れてるか?」
「大丈夫、問題ない!」
彼女の指先から弓弦が高く鳴いた。放たれた矢は空気を裂いて一直線に飛び、オーガの肩口を深々と貫く。巨体がのけ反った瞬間、二射目が喉に突き刺さり、巨獣は地面に崩れ落ちた。
「……よし!」
しかし、群れは止まらない。
押し寄せる獣たち、泥蛇が這い回り、オーガがまだ二体、前線を圧してくる。
「前衛、押し返せ! 右側、穴を塞げ!」
ガイウスの怒号が飛び、セレナが前線を維持するために盾列を再構築する。
レオンは血に濡れた剣を軽く振り払い、周囲を見渡した。
「……まだ序の口か」
「うん。でも、負けられないよ」
レティシアが弓に矢を番えながら、汗に濡れた額を拭った。
◆
戦場は、いよいよ本格的な修羅場を迎えようとしていた──。
最初の奔流が削がれ、森の縁で散発的に吠える声だけが残った。血と焦げた毛皮の臭いが風に乗り、防衛線の一帯は赤黒く染まっている。
「負傷者、こちらへ! 動けるやつは手を貸せ!」
後方の張り出しに簡易救護所が開かれ、Dランク冒険者たちが慌ただしく包帯と止血薬を手渡して回る。
「腕、抑えて! 血が止まらない!」
「ポーション節約! 重症優先!」
指示を飛ばしている若い治癒師の声が震えているのを、誰も責めはしなかった。
地べたに座り込み、肩から血を流す男が呻く。
「右面……〈鉄顎の咆哮〉が引いたせいで、狼やゴブリンがが回り込んだ……」
それを聞いた別の冒険者が舌打ちする。
「何やってんだ、あいつら……Bランクだろ?」
「前で踏ん張るって言ってたくせにな」
「ギルドであんだけイキってたのに、このざまかよ」
批判は小声だが、あちこちで同じ内容が漏れていた。
当の〈鉄顎の咆哮〉は、少し後ろでまとまって座り込み、息を整えている。リーダー格の男は歯を食いしばり、折れた盾を投げ捨てた。
「くそ……っ、オーガが二体同時は聞いてねぇ……!」
「言い訳するな、それを何とかするのがお前らの役目だろうが。結果穴開けたのは事実だろ」
ぼそりと返すギルドの職員。周囲の視線は冷たい。
〈遥かなる暁星〉のセレナが血のついた盾を拭いながら前方を指し示す。
「右面、杭を再設置! 前列二歩下げて段差を作る! 後列弓兵、泥地を避けて! 泥蛇が滑り込んでくるわよ!」
指示は明確で無駄がない。Cランク数名が杭を運び、バリケードをずらし、狼の死骸を脇へ引きずる。
ガイウスが続けて怒鳴る。
「〈鉄顎の咆哮〉、文句は後だ! お前らは補助列に下がって呼吸を整えろ。次の波までに戻れりゃ儲けもんだ!」
苦い顔ながら、〈鉄顎の咆哮〉の面々は黙って従うしかなかった。
救護所の陰で、血を拭かれている槍使いが囁く。
「さっきの……見たか? 右面崩れたとこ、まとめて斬った剣士」
「ああ、あれAランクの誰かかと思った」
「違うって。ギルドで見た顔だ。Cランク──レオンとかいう」
「嘘だろ……あの速さで?」
別の冒険者が割り込む。
「オーガも一瞬怯んでたぞ。あれ、ただの斬りじゃねぇ。踏み込みが変だった」
「ちょっと待て、Cランクであの動き……」
「昇格待ちじゃねぇのか?」
噂は火花のように散り、たちまち救護所の周辺へ広がっていく。
レオンは剣を布で拭いながら、後方の視線に気付いていたが、気に留める様子はない。
「傷は?」
「あたし? ないよ。矢筒もう一つ二つ欲しいけど……」
「次の波までは持たしてくれ。足りなきゃ拾ってくる」
「拾うの前提やめてよ」
レティシアが苦笑する。だがその手は素早く弓弦を点検し、割れた矢の羽根を選り分けている。




