第182話 静かなる制裁
シルヴィアからの依頼を終えた後、レオンとレティシアはしばし身体を休めていた。緊張ばかりではいけない、たまには休息を設けるべき──そう言ったのはレティシアで、レオンも素直にその言葉に従った。
とはいえ、完全に手を止めるわけではない。依頼こそ受けないが、情報収集のためにギルドへ顔を出すこともある。今日もそうだった。
ギルドに併設された酒場は、昼間だというのに活気に溢れていた。木製の長机には飲みかけの酒杯や皿が並び、一仕事終えた冒険者たちの笑い声や荒っぽい談笑が混じり合う。そのざわめきの中で、レオンとレティシアは他の冒険者に紛れながら耳を澄ませていた。
「ここ最近、南の方で魔物が多くなってきたらしいぞ」
「南? ああ、未開地の方か」
「ああ。それでだ、いくつかのパーティーがボロボロになって帰ってきたとかよ」
「死人も出てるって話じゃねぇか」
重苦しい空気が一瞬だけ流れたが、またすぐに別の話題へと移っていく。そこへ、ギルドの入口が開いた。軋む扉の音とともに、酒場のざわめきが微妙に変わる。
「おい、あれ……Aランクパーティーの〈遥かなる暁星〉じゃねぇか?」
「マジか、初めて見たぞ」
「へぇ、Aランクなんて実在してたんだな」
「当たり前だろ。俺たちとは住む世界が違ぇんだよ」
驚きと羨望の入り混じった声が、酒場のあちこちで上がる。その中で、レオンは全く興味を示さなかった。ただ、無言で軽い食事を続けるだけだ。パンをちぎり、スープに浸し、ゆったりと口に運ぶ。
──彼にとって、Aランクの肩書きなど、どうでもいいことだった。
「ちょっとスープの追加を取ってくる。レティシアはどうする?」
「あたしはいいよ」
(まあ、レオンから見たらBランクもAランクも、大したことはないもんね)
レティシアは興味なさそうなレオンを見て苦笑する。
周囲のざわめきがさらに大きくなる中、〈遥かなる暁星〉は迷いなく受付へと向かっていった。黒革のブーツが床を鳴らし、鎧に刻まれた傷跡が歴戦を物語る。先頭の大盾を担いだ男が無造作に書類を差し出す。
「依頼完了だ」
受付嬢が慣れた手つきで書類を受け取り、確認の手続きを進める。その間にも、周囲では小声が飛び交っていた。
「何の依頼受けてたんだろうな」
「魔物退治だろ? 最近南の方で騒ぎになってるし」
「そうだろうな。俺たちじゃ歯が立たねぇって噂のやつだ」
羨望と畏怖が入り混じった視線が、酒場の一角から注がれる。
──大きな声が響く。
中央の席で酒をあおっていたBランクパーティー〈鉄顎の咆哮〉の一人が、テーブルを小さく叩き、吐き捨てるように言った。
「……けっ。お高くとまりやがって」
その言葉に、仲間たちがニヤリと笑い、声を潜めて同調する。
「まったくだな。Aランク様は、俺たちとは口をきく気もねぇってか?」
「俺たちだってそう遠くねぇんだ。いずれ追い抜いてやる」
彼らは、勝手に自分たちを〈遥かなる暁星〉の“ライバル”だと思い込んでいるようだ。
そして、その思い込みが、酒の勢いで形になる。
リーダー格の男が椅子を乱暴に引き、立ち上がる。金属製の剣の柄が腰で鳴り、周囲の空気がぴりついた。
「おい、そこのAランク様よ」
酒場のざわめきが一瞬で静まる。注目が集まる中、彼はニヤリと笑い、言葉を続けた。
「そんなに偉ぇって顔してりゃ、鼻っ柱折ってやりたくなるんだよなぁ」
〈遥かなる暁星〉は挑発に応じなかった。受付の前で淡々と手続きを進めるだけで、振り返りもしない。その態度が、逆に〈鉄顎の咆哮〉の苛立ちを煽る。
「おい、聞こえてんだろ? 答えろよ!」
なおも食い下がるリーダーの声に、酒場の空気が軋むような緊張を帯びる。だが、〈遥かなる暁星〉はやはり無視した。書類を受け取ると、そのまま足を進め、奥の階段へと向かう。情報の更新の為、資料室にでも行くのだろう。
──完全な、沈黙。
次の瞬間、酒場のあちこちで小さな失笑が漏れた。
「おい、見たか」
「ああ、また無視されてやがる」
「前もそうだったらしいぜ」
噂話にクスクス笑う声が広がり、〈鉄顎の咆哮〉のリーダーの顔が赤く染まる。羞恥と怒りで、血管が浮かぶほどに。
「……ふざけんな!」
怒号とともに、リーダーは酒場に戻るなり、傍のテーブルを蹴り飛ばした。木製の脚が軋みを上げて倒れ、皿や料理が宙を舞う。スープが床に飛び散り、焼き肉の塊が別の冒険者の肩にぶつかった。
「おい、てめぇ!」
「何しやがる!」
周囲から怒声が飛ぶ。椅子が倒れ、騒ぎが一気に広がった。
それでも、リーダーは止まらない。椅子を蹴り、皿を投げ、悪態を吐き散らす。
「誰が笑った! 出てこいよ、クソ野郎ども!」
ギルドの職員たちが慌てて駆け寄り、制止の声を上げる。
「やめろ! ここで揉め事は禁止だ!」
「落ち着け!」
しかし、その声をかき消すように、他の冒険者たちからも非難が飛び交った。
「酒場で暴れるとか、頭おかしいんじゃねぇのか!」
「恥さらしめ!」
混乱と怒号の渦中で、酒場の隅に座るレオンだけが、静かだった。
彼は何事もなかったかのように、最後のパンをちぎり、口に放り込む。そして、低く呟く。
「……まったく、行儀の悪い連中だ」
暴れる〈鉄顎の咆哮〉のリーダーは、止めに入った職員の手を乱暴に払いのけると、近くの椅子を掴んで投げつけた。木片が床を跳ね、皿やグラスが次々と割れる。怒号と悲鳴が入り混じり、酒場は修羅場と化した。
ひと際大きな皿が宙を舞い、レオンの座るテーブルへ一直線に飛んでくる。
レオンは手元のスープを避けることすらせず、軽く身を傾けるだけでそれを避ける。皿は背後の柱に当たり、ガシャン、と乾いた音とともに粉々に砕け散った。その破片が頬をかすめても、彼の表情は微動だにしない。
「……ああ、本当に面倒くさい」
レオンは小さく吐き捨て、右手をわずかに動かした。
見えざる圧が空気を歪め、暴れていたリーダーの身体を一瞬で拘束する。まるで時間が止まったかのように、彼の四肢はピクリとも動かなくなった。
「……な、何だ……!」
男の目が恐怖に見開かれるが、声を上げる暇もなく、レオンは力を緩める。重力に引かれたように、膝が崩れ、抵抗力を失ったところへ職員が殺到した。
「今のうちだ、まとめて外に出せ!」
ギルド職員と周囲の冒険者が連携し、暴走したリーダーだけでなく、同席していた〈鉄顎の咆哮〉の面々を次々と押さえつけ、腕を取って引き立てる。
「離せ! 俺たちはまだ──」
「黙れ! 外で頭冷やしてこい、全員だ!」
抗議と悪態を残しながら、〈鉄顎の咆哮〉の連中はまとめて酒場の外へ連れ出されていった。
騒動の余韻が残る中、階段を下りてきた〈遥かなる暁星〉が振り返る。暴れた連中と荒れ果てた酒場の様子を無言で一瞥し、何も言わず踵を返してギルドの出口へ向かった。最後尾の女性が肩をすくめるように短く息を吐いたが、言葉は落とさない。そのまま彼らは静かに去る。砕けた陶片を踏む音と、片付けに走る職員の声だけが残った。
「ったく、いい加減にしろっての」
酒場の隅。レオンは椅子に深く腰を戻し、冷めかけた残りのスープを飲み干す。
隣でレティシアが呆れたように腕を組み、小声で囁く。
「もう、もっと早くやってよね、服にソースがついたじゃない」
「ギリギリまでは放っておいていいと思ったんだよ」
レオンが淡々と返すと、レティシアは溜息交じりに微笑む。騒ぎの残り香だけが、酒場の空気に薄く漂っていた。




