第179話 魔女の視線
アスラン・ヘイブンの喧噪から遠く離れた、東端の裏路地。風の通り道にぽつんと佇む一軒の古びた店が、彼らの目的地だった。
看板には、流れるような古代語と共にこう記されている──〈Arcnote〉
扉の前に立つと、軒先に吊るされた風鈴が一つ、まるで意思を持つかのように鳴った。微かに揺れる魔力の波紋が、空気に漂う。
「……ここが、魔道具店〈アークノート〉か」
レオンは扉に手をかけ、慎重に開いた。
店内に足を踏み入れた途端、二人の鼻腔を多種多様な匂いがくすぐった。乾いた薬草、金属の焼けた匂い、何か香水のような甘い香り──それらが複雑に混ざり合い、不思議と居心地が悪くない。
棚という棚には、瓶、巻物、宝石、謎の器具が所狭しと並べられている。小動物ほどの大きさの木彫りの人形が壁に貼りつき、空中には光の粒がふわふわと漂っていた。
どれが商品で、どれが飾りで、どれが危険物か──その境界は曖昧だった。
奥のカウンターの向こう、長椅子に足を投げ出して腰掛けていた女が、ゆるりと顔を上げた。
紫の瞳が揺れる。その中に星があるように見えたのは、錯覚ではない。
シルヴィアは、二人の気配にほんのわずかに眉をひそめた。
男性からは、魔力の気配がほとんど感じられない。不思議なことに、彼の傍らには風の精霊がひっそりと寄り添っているようだった。
(……不思議な人ね)
彼女は内心で呟いた。
「へえ……これはまた、珍しいお客さん」
彼女──シルヴィア・ノクトは、口元に笑みを浮かべながら、肩肘をついてこちらを見つめていた。年齢は測りがたく、声は妙に落ち着いている。
その背後には、宙に浮かぶ魔導式の本がページをめくっており、時折ひとりでに呪文が囁かれているような気配もあった。
「……ギルドから依頼を仲介された。依頼主に直接確認を、とのことだったのでな」
レオンが一歩前に出て、依頼票の写しを差し出す。
「あらあら、あの依頼を受けてくれる物好きな人がいたなんてねぇ」
シルヴィアは小さく笑い、椅子からゆっくりと立ち上がった。その動作すらどこか舞台の一場面のように、優雅で、現実味に欠けている。
「雷晶石の回収依頼よね? 東渓谷の〈黒晶尾〉からとれるやつ。あれ、地味に面倒なのよ。砕き方を間違えると結晶が濁るし、運が悪けりゃ尻尾で一撃」
「なら、なぜ出したんだ?」
レオンが眉をひそめると、シルヴィアはクスクスと笑いながら答えた。
「そりゃあ──欲しかったからよ、良質な“未加工”の雷晶石がね。でも、自分で採りに行くのは御免こうむりたい。あそこ、虫も多いし、道もぬかるむし、魔物はしつこいし……ね?」
「……なるほど。つまり、誰かが命を張って採ってきたやつを安く買い叩くつもりだったわけだ」
「あら、ひどい言い方。正確には、“正当な報酬で買い取る用意はある”。ちゃんと品質と数に応じて支払うつもりよ。私、誠実がモットーなの」
「……“品質と数に応じて”、か」
レオンが呟き、レティシアが口を挟む。
「報酬は応相談、とあったけど。たとえば、純度の高い雷晶石が三つ。一本の尾から剥離した、ひび割れなしの状態なら?」
シルヴィアの視線は自然と、エルフであるレティシアへと向けられた。
紫の瞳が軽く細められ、静かに問いかける。
「あなた、どこの民かしら? グリューン? ラグナエル?」
レティシアは少し戸惑いながらも、はっきりと答えた。
「ラグナエルです」
それを聞くと、シルヴィアは無言で頷いた。
「そう」
その一言は簡潔で、しかし深い意味を秘めているように感じられた。
シルヴィアの胸の内に、微かな温かさが灯る。
(あそこには、古い友人がいる……まだいるのかしら?)
ふとそんな思いがよぎり、いたずらっぽく唇の端を緩める。
その笑みは、何かを隠す秘密のように静かで柔らかかった。
シルヴィアは目を細め、指先で宙をなぞるようにして何かを計算しているようだった。
「三つ、ね。加工無しで持ってきてくれるなら、一つにつき金貨五枚。それが雷属性を帯びた“共鳴型”だった場合は十枚まで出すわ。でも、濁ってたら……一枚も出さない。いい?」
「共鳴型の見分け方は?」
「自分で勉強しなさい。……って言いたいところだけど、今回は初回サービス。ほら、これ」
シルヴィアは、机の引き出しから小さな金属製の板を取り出した。青白く光る水晶片が埋め込まれた、掌サイズの物。
「“魔力律動反応計”よ。晶石に触れさせると、一定のリズムで光るやつが“共鳴型”。貸してあげる。でも壊したら、弁償ね? あとサービスついでにこれを持っていきなさい」
「これは?」
「呪符よ。魔力抑制符。雷気を抑えるの」
レオンはそれを慎重に受け取り、視線を交わしたレティシアが小さく頷く。
「……分かった。回収の条件と報酬を確認した。依頼は引き受けよう」
「ふふ、そうこなくちゃ。じゃあ、健闘を祈るわ。あ、一つ忠告。東の渓谷、最近になって“別種”も出没してるって噂があるの。尾が青白く光る奴は……できれば、避けたほうがいいかもね」
「理由は?」
シルヴィアは答えず、ただ肩をすくめ、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「さあ。理由を知るのも、冒険者の特権でしょ?」
レオンは小さく鼻を鳴らしながら踵を返し、レティシアと共に店を出る。
扉の向こうに消えていくレオンとレティシアを、シルヴィアは静かに見送った。
その紫色の瞳は微かに光り、揺らめく星のように揺れている。
「……これは、直接見た方が早いかしらね……」
ぽつりと呟く声は、店内の雑多な物音にかき消されそうになりながらも、確かな決意を秘めていた。
無造作に掛けられた漆黒のローブの裾を整え、彼女は軽やかに立ち上がる。
背後の棚に手を伸ばすと、複雑な魔法の刻印が浮かび上がる小瓶を一つ取り出した。中の液体が淡く光り、微かな魔力の波動を放つ。
それを指先に付け、空中に静かに紋章を描く。
瞬間、店の窓が一瞬だけ霞み、外の景色が曖昧に歪んだ。
そして──
忍び足で扉の外へ出る。二人の姿はまだ見える。
声には出さず、風と影の中に溶け込むように、シルヴィアは静かに彼らの後を追い始めた。
その背に漂うのは、ただの興味ではない、遥か深遠な計画の予感であった。
扉が閉じる寸前、風鈴が再び鳴った。まるで別れの音のように、澄んだ音色が小さく余韻を残していた。




