第170話 峡谷を越えた先に
二人が〈石骨の峡谷〉へ向けて出発してから、一日が過ぎた。
初日の行程は平穏そのもので、緩やかな丘陵を抜け、夕刻には峡谷の手前にある古びた野営地跡に到着した。
「……地図通りだね。ここで一泊して、明日峡谷に入る」
レティシアは背負っていた荷を下ろし、簡易テントを設営しながら周囲を警戒する。既に陽は傾き、峡谷の影が地平に伸びていた。
夜風は思った以上に冷え込み、レオンは焚火に薪をくべながら呟いた。
「これが“夜は冷える”ってやつか。下手すりゃ、装備が乾かなくなるな」
熱い抗瘴草の茶を啜りつつ、二人は翌日の進行ルートを最終確認した。
そして夜明けとともに、〈石骨の峡谷〉へと足を踏み入れた──。
二日目・早朝。峡谷入口。
その地は、まるで石の死の海だった。
白灰色の地表に、鋭く風化した奇岩や石柱が立ち並び、どこもかしこも切り立った崖と急勾配の坂ばかり。
その風景には一片の緑もなく、生命の気配が極端に薄い。空気は乾燥し、風が吹き抜けるたびに細かい砂塵が舞った。
「……空が近い。けど、圧迫感がすごいね」
レティシアが呟いた通り、峡谷は開けているのに、妙な閉塞感があった。
「水は地下……風も通る。たしかに、こういう地形になる」
レオンは足場を慎重に選びながら、腰の水筒を確認した。
正午に近づくにつれ、直射日光がじりじりと体力を奪っていく。汗が滲む。風が吹けば心地よいどころか、砂を巻き上げて視界を奪った。
道中には数度、崩れかけた岩場を越える場面もあり、その度に荷物の重さが脅威となった。
そして──午後。
峡谷の中ほどを進んでいた時、不意に、レオンが足を止めた。
「……レティシア、止まれ。あれを見ろよ」
彼が指差した先、崖沿いの影──いや、それは「岩」に見えた。
だが、ほんのわずかに、風に乗って“岩”の一部が揺れたように見えた。
「擬態……あれ、〈シルヴァ・スパイン〉?」
レティシアが即座に魔法陣の構築に入る。レオンも静かに剣を抜いた。
刹那、その“岩”が跳ねた。
白銀の殻に覆われた巨体が、尋常でない跳躍力でこちらへと飛びかかってくる。
「うわっ──レティシア、下がれッ!」
レオンが地面を蹴った。砂が巻き上がる。
跳躍して襲いかかってきた魔獣の爪が、レオンのすぐ横を掠めて岩を抉った。毒の膜がにじむ黒い爪。神経麻痺の恐れあり。
「〈風の衝撃波〉!」
強烈な衝撃が側面から魔獣を打ちつけ、体勢を崩させる。
だが殻は硬い。浅い傷すらついていない。
「硬すぎる……! 腹か、頭……!」
レオンは斬撃を放ちながら敵の動きを誘導し、わざと隙を見せた。
魔獣が突進してくるその一瞬、レオンは刃を捨て身で差し込む。
刃先がわずかに魔獣の喉元に届く。
「そこだッ──!」
激しい金属音。殻が軋み、裂ける。だが完全には割れない。
レティシアがすかさず弓で攻撃する。
「レオン、下がって!」
放たれた火矢が、レオンが刻んだ裂け目に突き刺さる。
熱が内部から魔獣の肉を焼いた。断末魔のような咆哮。
そして──崩れるように、〈シルヴァ・スパイン〉は地に伏した。
レオンは肩で息をしながら、毒の痕跡がないかを確認する。
「……大丈夫そうだ。触れてない」
「よかった……。けど、まだ出てくるかも」
二人はその場に留まらず、速やかに場所を移動した。
◆
日が傾く頃、ようやく安全とされる中継地点の岩陰に到着する。そこは旅人の間で〈月影の棚〉と呼ばれる休息地で、瘴気の影響も少ない場所だった。
焚火を起こしながら、レティシアが茶を淹れる。
「……さすがに疲れたね。魔力も削られたし、ここは早めに休んで夜に備えましょ」
「ああ。夜は“あれ”らが活性化するんだったな。油断すると吸い尽くされるぞ」
そう、“あれ”──〈ブラッド・リーチャー〉。
夜を越えるには、焚火の炎と魔法、それに互いの信頼が不可欠だった。
日は沈み、峡谷の闇が深まり始めていた。
岩の裂け目に設けられた中継地〈月影の棚〉には、焚火の明かりがちらちらと揺れている。崩れかけの石棚の下に身を隠すようにして、レオンとレティシアは息を潜めていた。
「風が止まった……」
レティシアが低く呟いた。
先ほどまで峡谷を吹き抜けていた冷たい夜風が、まるで何かの到来を恐れてか、唐突に静まり返ったのだ。
「……瘴気が濃くなってきてる。目が霞む」
レオンは剣の柄に手を置き、岩陰から周囲を伺った。視界の端に、ゆらりと黒いものが浮かぶ。
──一匹。いや、三、四匹。五、六……。
「……来たか」
それは、風のように音もなく漂ってきた。黒く細長い無数の虫──〈ブラッド・リーチャー〉の群れ。
気温の低下とともに活性化し、瘴気と人の体温を頼りに、闇の中から現れる吸血魔虫。群れを成し、肌に張りつき、血を吸い、じわじわと体力を奪っていく。
レオンが素早く火打石を取り出して、焚火の周囲に追加の薪をくべる。
「煙を強くする。奴らは煙と火を嫌うはずだ」
「あたしも補助する。〈風障壁〉!」
レティシアが小さく詠唱すると、焚火の周囲に風の膜が張られ、煙が円を描いて広がっていく。
その瞬間、漂ってきたリーチャーのうち数匹がもがくように宙で方向を変え、逃げ出した。
「……効いてる。でも数が多い」
レティシアの額に汗が滲む。昼の戦闘で魔力も消耗しつつあった。
だが、煙だけで防ぎきれる相手ではない。風に乗って迂回し、崖の上から滑り落ちるようにリーチャーが現れた。
「崖の上……!」
「任せろ!」
レオンが飛び出し、剣を振るう。小さな虫を、風と炎の残光で視認しながら剣の腹で振り払う──
だが、何匹かはそのままレオンの首元、腕、足元に絡みついた。
「くっ……!」
素早く引き剥がし、剣の鍔で押し潰す。だが、血のにじむ感覚と微かな痺れが走っていた。
「レオン、下がって! 〈精霊竜巻〉!」
レティシアが詠唱を終えると、彼女の周囲に精霊の嵐が広がり、虫たちを一掃した。嵐は焚火の煙と混ざり、空中に焼けた匂いと黒い灰を残す。
再び静寂。虫の羽音も瘴気も、一時的に霧散した。
「……大丈夫? 吸われた?」
「少し、な。毒の類はないが……体力が削られてるのが分かる」
レオンは抗瘴草の茶を飲み、無理に動かず息を整えた。レティシアも肩を落として座り込む。
その顔には疲労と、そして一つの確信が刻まれていた。
「……この峡谷、やっぱり“試されてる”ね。強さも、冷静さも、生き残る知恵も」
「ああ。そうでなければ、アスラン・ヘイブンに向かう資格はないってことだ」
「でもさ、楽な道の方を選ぶって人が多いんじゃないの?」
「だろうな。でも、それでアスラン・ヘイブンでやっていけるのか、ってことだな」
わざわざ危険な道を選んだのは、今後のことを見据えてのこと。二人に後悔はない。
二人は火のそばに腰を下ろし、交代で見張りを立てる準備を始めた。
夜はまだ長い。だが、この地を越えれば──本当の冒険が待っている。
◆
夜を無事に越えたとはいえ、レオンとレティシアの顔には疲労の色が濃く刻まれていた。
それでも二人は、朝日の差し込む峡谷に背を押されるようにして、再び歩き出していた。
ここから先は、なだらかな下り坂が続く。
だが、それが“安全”を意味するわけではない。道は細く、左は切り立った崖、右は岩肌が迫っていた。
「あと半日も進めば、峡谷を抜けられる……はず」
レティシアが額の汗を拭いながら呟く。
だが──
突如、谷を打ち破るように乾いた音が響いた。
──カンッ!
岩を砕くような甲高い衝撃音。続いて、乾いた鳴き声。
「……あれは」
レオンがすぐに剣を抜く。
崖上から、茶褐色の影が跳ねるように姿を現した。四足で岩を駆ける獣──〈クラックロア・ゴート〉。
その先頭の一匹が鳴き声をあげた瞬間、谷の左右から次々と個体が現れ、岩肌を滑りながら群れが集結していく。
「……五、六、七……。ダメ、増えてる。鳴き声に反応して群れが来た!」
「数が多すぎる……一匹を仕留めても、崖下に突き落とされたら終わりだ。ここは……」
レオンは一瞬だけ周囲を見渡した。
そして、小さく頷く。
「レティシア、あそこの岩棚まで誘導する。奴らを崖際から引き離すぞ!」
「あの広場状のとこね……了解!」
二人は身を翻し、駆け出す。獣たちはその動きに呼応するように吠え、蹄を鳴らして追ってくる。
峡谷の急坂を跳ねるように駆ける彼らの脚力は、オーガ並み。突進をまともに受ければ人の体などひとたまりもない。
背後から、風を裂く音とともに、一頭が迫る。
「来たか──!」
レオンが一瞬振り返り、崖沿いの岩壁を蹴って飛び上がる。
すぐ下を、ゴートの角が鋭く通り過ぎた。
すかさずレティシアが魔法を放つ。
「〈風の衝撃波〉!」
強烈な衝撃が側面から魔獣を打ちつける。ゴートは体勢を崩して滑って転倒し、坂を転がり落ちた。
「いいぞ……!」
「でも、まだ後ろ!」
二人が目指した岩棚に到着する。その場所はわずかに広く、中央に割れた石柱がそびえていた。
そこに飛び込むようにして立ち、レオンが叫ぶ。
「ここで仕留める! 一匹ずつ、引きつけて叩く!」
群れのうち、三頭がまず突進してきた。
先頭の一匹が、頭を下げて角を突き出す。
「来いッ──!」
レオンは正面から突っ込むように見せかけ、横へと跳ぶ。その瞬間、獣は急制動できず、崖際で体勢を崩した。
「〈精霊竜巻〉!」
レティシアの風の魔法が突風となって後押しし、獣の身体を押し出す。
そのまま、一頭が奈落へと消えた。
残る二頭は岩棚の中央に突っ込んでくる。レオンが一頭の前足を斬り、崩れたところへレティシアの魔法が待ち構える。
「〈土槍〉!」
地面から鋭い槍が突き上がり、ゴートの身体を貫いて動きが止まった。だが、最後の一頭は崖の傍を駆けて二人の背後を取ろうとしていた。
「レオン、後ろ──!」
その瞬間、レオンが反転。剣を渾身の力で振り抜く。
斬撃はゴートの前足を削ぎ、そのまま体勢を崩した個体が、咆哮を残して崖下へと落ちていった。
──沈黙。
岩棚には砂塵が舞い、二人の荒い息だけが響いていた。
「……終わった、か」
「うん……っ。危なかった……」
レティシアはへたり込むように膝をついた。レオンも剣を突き立て、しばしその場に膝をつく。
しばらくして、静けさの中。
西の空の向こう、岩山の隙間から光が差し込んできた。
「……見て」
レティシアが指差すその先に、岩の裂け目の向こうに広がる景色があった。
青空。平原。そして──遠くに聳える塔と高い城壁の影。
それは、目的地の街──アスラン・ヘイブンだった。
「……辿り着いたな」
「うん。ようやく、ね」
あまりにも長く、あまりにも試される道だった。
だが二人は、互いに無言で微笑み合う。
その歩みは、まだ止まらない。
本当の冒険は、ここから始まるのだから──。




