第16話 兄と母の悪意
蝋燭の火が揺れている。書斎の机の上には、辺境伯爵家から贈られた贈答品。形式的なワインの瓶や、書簡が並べられていた。エリオットはその書簡の封蝋を指でなぞると、鼻で笑った。
「“またの機会を楽しみにしております”……だと? 俺を笑いものにしやがって……」
力任せに書簡を机に叩きつける。内容は丁寧だった。だが、それが逆に嘲笑に感じられた。“お前には務まらない”、そう言われている気がした。
(俺は、〈聖騎士〉だぞ? なぜ、誰も恐れない? 敬意を示さない?)
あの訓練場での伯爵家の若者たちの視線。あれは「同じ貴族」としての目ではなかった。「ああ、こいつは口だけの男だ」とでも言いたげな、冷たい視線だった。
立ち上がって、訓練用の木剣を手に取り、無造作に振るう。力任せに、感情のままに、何も考えずに振り回す。が、振った木剣は何の手応えもなく空を切り、バランスを崩して尻もちをついた。
「クソッ……!」
痛みに顔を歪めながら、自分自身の姿にふと気付く。
──惨めだ。
──滑稽だ。
(……これが〈聖騎士〉?)
気付けば手が震えていた。
(なぜだ。なぜ、力を与えられたのに……皆、俺を認めない? なぜ、あいつはスキルすらないのに、生き残っている?)
弟の姿が脳裏に浮かぶ。冷たい瞳、あの時の言葉、向けられた殺気、背を向けて歩き去っていく背中。
(あいつが……俺より……強い? ありえない。そんなことがあるものか……!)
自分は、“選ばれた”のだ。スキルを得たことで全てが保証されたと、そう信じ込んでいた。だから別に鍛錬もしていない。戦ってもいない。そんな必要もない。スキルも持たないあんな雑草が自分より強いなどとは認めない。
(違う……そうじゃない。力が……欲しい。誰もがひれ伏す力が……)
エリオットの目が狂気を帯びていく。焦燥と嫉妬、そして拭えない無力感が、その心を侵食していった。
◆
厚く垂れたカーテンの隙間から月の光がわずかに漏れ、室内に不気味な影を落としている。エリオットは机に向かい、羊皮紙に何かを書き記していた。緩慢でありながら、躊躇いのない筆致。
手紙は一通ではない。既に三通目。すべて、闇ギルド。王都の裏社会に名を持つ組織に宛てたものだった。今後何かと必要になるだろうと、王都の侯爵家につながる貴族の青年に多額の金を払って手に入れた情報だった。
「……ただの落ちこぼれが、この世界の目を引くなど……あってはならない」
声は低く、どこかかすれたように濁っていた。
「貴族の恥だ。俺の顔に泥を塗ったのだ……兄であるこの俺を……愚弄した」
何一つ正当性のない、怒りというより、もはや呪詛のような言葉が口をつく。
伯爵家の噂話で、レオンが遺跡に入ったと聞いてから、一ヶ月以上が過ぎた。最初こそ、すぐに死ぬだろうと思っていた。だが、何かが違うと気付いた。レオンが死んだなどと言う話は、一向に聞こえてこない。
「まだ……生きている。ということは、まだ遺跡の中にいるということか……」
火にかけた蝋の垂れる音がやけに大きく響く。
「消えろ……レオン。お前がいなければ、俺こそが、すべてを手に入れられる……」
決してそんなことはないのだが、エリオットは本気だった。本気でそう思っている。
エリオットは指で手紙の封をし、封蝋を押す。その印には、男爵家の紋章とは異なる、彼個人が密かに使用している印章が刻まれていた。
「送れ。誰であれ構わん。……ただ、遺跡の中に入れる者を手配しろ。あいつを……確実に殺すんだ」
机の引き出しから、金貨の袋が一つ、重たい音を立てて置かれた。
◆
数週間後。エリオットは苛立ちが募っていた。
「一体どうなっている……!」
エリオットは机を叩き、部屋の中を苛立たしげに歩き回った。数週間前に手配した闇ギルドへの依頼。標的は弟のレオン。ただの出来損ないで、スキルも持たず追放された身。こんな奴、野垂れ死ぬか魔物にでも食われて終わるだろうと思っていた。
だが、奴は生きていた。遺跡に入り込んだという情報が入ってから、もう二ヶ月近くが経つ。にもかかわらず、闇ギルドから届いた報告は──
『工作員は全滅。遺跡に接近できず、任務は達成不可能』
耳を疑う内容だった。金を積んだにもかかわらず、何の成果も得られない。いや、それどころか、送り込んだ連中が全員消息を絶ったという。
理由は、“魔の森”の魔物がかつてないほど活性化し、移動そのものが困難だったこと。遺跡に接近できた者もいたが、入口すら見つけられず、ある者は魔物に襲われ、ある者はそのまま消息を絶ったという。
「金も手間もかけたってのに……何の成果もないだと……? 役立たずめ……!」
エリオットは報告書を叩きつける。手間をかけたのは闇ギルドなのだが、彼はまるで自分が苦労したかのように苛立つ。
苛立ちは、やがて焦燥へと変わっていく。
(どういうことだ、闇ギルドの工作員が全滅なんてあり得るのか? それとも騙されたのでは? いや、そんなことはないはず……)
今、こうしている間にも、あの忌々しい弟が、何か華々しい成果をあげて帰るのではないか、自分にはないものを、あの弟が手に入れつつあるのではないか。その可能性が、心の奥底からエリオットを焦らせていた。
「そんなこと、絶対に許せんッ!」
無茶苦茶に振った剣が、部屋の調度品を打ち砕き、大きな息を吐いて、ようやくエリオットは落ち着いた。
「ずいぶんと荒れていますね、エリオット」
ふいにかけられた声に、とっさに剣を構えるが、そこにいたのはアルテイル男爵の正妻である、彼の母親だった。
「……ッ! 母上ッ……!」
「その様子では、例の依頼はうまくいかなかったようですね」
「……なぜ母上がそれをご存じなのですか……?」
「フフフ……母は王都の伯爵家出身、私だけではなく、権謀術数渦巻く王都にいる者で、ある程度の身分を持つ者は、大抵その手のことに長けているものです。当然、あなたが正体を偽って、複数の闇ギルドに依頼したことも耳に入ってくるのですよ」
母親のその言葉に、一瞬信じられない表情を見せたが、すぐに納得した。
「まさか、いや、そういうものなのでしょうね……」
「エリオット、闇ギルドなどよりも、もっと頼りになる存在を教えましょう。闇の奥深くに潜む、絶対の暗殺集団を」
母親の瞳には妖しい狂気で満ちていた。そしてエリオットは、その妖しさに引き込まれていく。




