第150話 混乱
〈聖女〉による、〈黒翼〉──ラザフォード枢機卿包囲作戦の少し後。
教皇庁内における枢機卿会議の間。厳かなはずの議場に、張り詰めた空気が立ち込めていた。白い壁には神聖を象徴する光輪の紋章が掲げられ、天蓋からは祈祷歌が微かに流れている。しかし、そこに集う枢機卿たちの表情は険しかった。
「……期限は、一ヶ月」
老枢機卿が低く読み上げる。
「それまでに謝罪と賠償を提示し、帝国と王国の共同管理地から、聖騎士団を“完全に”撤退させねば、帝国は武力行使も辞さない、との声明だ。外務卿エーベルハルト名義で、王国含む周辺諸国にも通達済み……とのことだ」
沈黙が落ちた。
「無礼だ。神の僕に剣を向けると明言したに等しい」
ガレオ枢機卿が、拳を卓に叩きつけた。
「このような脅しに屈してはならん。聖騎士団の撤退など、神威への侮辱だ!」
「だが、現実を見ねばなるまい」
対するミリアム枢機卿が、表情を曇らせたまま反論する。
「帝国軍は既に鉱山周辺への展開を始めている。名分を得た今、侵攻は時間の問題。外交的孤立は避けねばなりません」
「そもそも、ここまで事態をこじらせた原因は……」
ゼオルド枢機卿が、低く口を開いた。
「教皇陛下と一部の者が、強引に聖騎士団を鉱山跡地へと派遣したことにあるのではないか? 慎重論があったにもかかわらず、聖地の管理と称して、武力を背景に現地を制圧した……それが帝国の激怒を招いたのだ」
場の空気が一瞬、重くなった。
「……ゼオルド枢機卿、それはさすがに……」
ミリアム枢機卿が眉をひそめるが、その言葉には迷いがあった。
「言い過ぎではない」
ザール枢機卿が苦悩の色を隠さず言う。
「ならば、王国に仲裁を持ちかけてはどうか?」
ディナス枢機卿が提案した。
「王国はまだ態度を保留している。我らと帝国の戦いが本格化すれば、被害はさらに広がる。仲裁を頼むことで、戦を避ける手立てになるかもしれん」
「無理だな」
重々しく口を開いたのは、サヴィニアス枢機卿だった。
「王国もまた、鉱山跡で被害を受けた当事者だ。今さら仲裁を求めたところで“自分たちの非を棚に上げて”などと、帝国に与する口実を与えるだけだ」
枢機卿たちの視線が交錯する。
「それでも、こちらから先に頭を下げれば、“和平の意思あり”と取られる可能性もある……それに」
アルベルト枢機卿が、おずおずと口を開いた。
「〈聖女〉殿を表に立ててはどうか? 帝国も、彼女の名を無下にはできまい。神意を体現する聖なる巫女の姿があれば、相手も一歩引くかもしれん」
一部の枢機卿がざわついた。
「……つまり、〈聖女〉を盾にしろと?」
ミリアム枢機卿が低く呟くと、アルベルトは顔を背けるように黙った。
「虫のいい話だな」
ザール枢機卿が小さく嘆息した。
「王国に都合の悪い火種を押しつけておいて、今さら仲裁を願い出る。挙げ句の果てには、〈聖女〉に縋ろうとは……我らは、ここまで堕ちたのか?」
「だが……帝国の動きはあまりに早い。これは聖地の掌握だけではなく、聖教国そのものを貶める意図があるのでは?」
ザール枢機卿が苦悩の色を隠さず言った。
「返答期限は迫っている。完全な拒否を選べば、帝国は軍を動かすだろう」
沈黙が広がる。
誰もが言葉を探しながら、顔を伏せるか、無言で書類に目を落とすばかりだった。
「……いずれにせよ、打てる手は打たねばならない」
やがて、ミリアム枢機卿が静かに口を開いた。
「王国には、あらためて“善隣の情”を訴える形で仲裁をお願いしよう。そして……〈聖女〉殿にも、可能な範囲での協力を仰ぐ。帝国とて、彼女の名を前にすれば、無視はできまい」
幾人かが頷いた。反対意見は出なかった。
というより──他に打つ手がなかった。
軍備をもって帝国に対抗するには時間が足りず、外交の後ろ盾も失いつつある。無理筋と分かっていても、王国と〈聖女〉に望みを託す以外、打開の道はなかったのだ。
こうして、聖教国上層部は、一縷の希望を“他国と〈聖女〉”という外の存在に預ける決定を下したのだった。
「それにしても……我々は教皇陛下のご意思を仰がねば決められぬ」
誰かが、苦しげに言った。
「だが──」
その場にいる誰もが思った。その教皇が、現れないのだと。
会議が始まって三度目の討議となる今も、教皇は一度も姿を見せていない。病床にあるとも、瞑想に入られたとも噂されているが、真偽は不明だった。
苛立ちが、じわじわと広がる。
「……沈黙を守り続ける御方が、果たして主の代理人たりうるのか? もはや、我々だけで結論を出すべきではないのか?」
ゼオルド枢機卿が再び口を開く。今度は誰も即座に否定しなかった。
「この重大な局面で、導きの言葉もなければ姿も見せぬ。主の代理者とて、姿を現さねば意味はない。民も騎士も、戸惑っている。我々自身で進むべきではないのか?」
ガレオ枢機卿が、椅子から立ち上がる。
「民は、騎士は、我らの指導を求めている!」
「ガレオ枢機卿、それ以上は口を慎め!」
ザール枢機卿が静かに制した。だが、その声にもわずかに怒気が混じっていた。
「……私は、教皇陛下に裏切られたとは思いたくない」
ミリアム枢機卿がようやく口を開いたが、その声音には明らかなためらいがあった。
「ただ……このままでは、我らの意思も信仰も、どこへ向かうのか分からなくなる」
「……既に、向かう先など見失っているのではないか?」
ゼオルド枢機卿の言葉が、議場に沈み込む。誰も、否定しなかった。
「教皇陛下が……この重大な局面で、なぜ沈黙されるのか。ご意志を仰げねば、我々は分裂する。いや、もうこのように、分裂しかけている……」
「……それが、誰かの思惑なのではないか?」
ゼオルド枢機卿がぽつりと呟いたその一言が、誰にも否定されることなく、議場に沈み込んでいった。




