第15話 打ちのめされた〈聖騎士〉
豪奢ではないが、堅牢で気品のある空間。広間の奥、高台の椅子に座るのは、辺境伯爵ギルベルト・ヴァルツェン。〈剣聖〉のスキルを授かり、幾多の戦場を渡ってきた重鎮である。
「辺境伯爵ギルベルト・ヴァルツェン殿、お招きにあずかり、光栄に存じます」
頭を深く下げたのは、男爵家の長男・エリオット。漆黒の礼装に身を包み、背筋を正していた。額には薄く汗がにじんでいる。
「うむ。遠路ご苦労だったな、エリオット・アルテイル男爵家嫡男」
ギルベルトの声は落ち着いていた。だがその眼光は鋭く、若き〈聖騎士〉を一瞬で射抜くような圧を帯びている。
「……はっ。僭越ながら、今後、辺境伯爵家とのより良き関係を築いていければと存じます」
エリオットは努めて堂々と話すが、その内心は穏やかではなかった。目の前の男は、〈剣聖〉。自分の〈聖騎士〉など、比べ物にならないことは重々承知している。しかもこの伯爵は、父でさえまともに言葉を交わしたことがない相手。
「なるほど。貴族同士の付き合いもある程度は必要だ。その点だけは懸命に励んでいるようだが……」
多少の皮肉を込めたのだが、エリオットは気付かない。緊張のせいもあるだろう。ギルベルトはつまらなそうに言葉を切り、エリオットの目を真正面から見据える。
「“スキル”を背負ってきた者の実力、私の目で確かめねばならんのでな。今の世では、名とスキルばかりが先に歩く。だがこの地では、剣の重さを知らぬ者はすぐに死ぬぞ?」
言外に「口先では通用しない」と言われたのと同じだった。今度は気付いたのだろう。エリオットの背筋がぴんと張る。額の汗が冷たく感じられる。声を絞り出すように答えた。
「……はい。私の剣が、伯爵様の目にどう映るか・・・試していただければ、幸いに存じます」
ギルベルトは目を細め、ふっと鼻を鳴らした。
「そうか。ならばいずれ試してやろう。だがその前に、“本物”を知ることだ。近く、訓練場に案内させる。お前がどれだけ〈聖騎士〉の名に相応しいか、とくと見せてもらおうか」
その言葉に、エリオットは無意識に喉を鳴らした。
自分が、どれほど軽い存在なのか──彼はこの数日で、思い知ることになる。
◆
朝の冷たい空気の中、訓練場には甲冑の打ち鳴らす音、鋭い掛け声、剣と剣が交わる金属音が響いていた。
「おい、止まるな! 一歩踏み込みが甘い!」
「はっ!」
鍛え上げられた兵士たちが汗を飛ばしながら、黙々と剣を振るっている。その様子を、少し離れた場所で見守る姿、エリオット。
(……これが辺境伯爵家の兵たち……?)
唖然とした。男爵家の兵とはまるで違う。一目でわかる。実戦を重ねた動き。迷いのない足運び。なにより、剣に“命”が通っていた。
「〈聖騎士〉殿。よろしければ、模擬戦を一ついかがですかな?」
声をかけてきたのは、訓練場を監督していた副長格の男。見た目は三十代、鍛えられた体躯に無駄はない。礼儀正しく、だが明確な“試す目”でエリオットを見ていた。
「……構わない。こちらこそ是非、お願いしたい」
自分でも動揺しているのがわかった。だが、このまま引き下がれば、〈聖騎士〉の名が廃れる。エリオットはそう思い、応じるしかなかった。
数分後、模擬戦が始まる。周囲の兵たちが静かに見守る中、エリオットは構えを取った。〈聖騎士〉スキルによる“加護”の力を纏い、突き出す。
だが──
「……遅い!」
副長の剣が、あっさりとその突きをいなす。重心の崩れたエリオットの身体がよろけ、次の瞬間には喉元に剣の切っ先が突きつけられる。勝負はあっけないほど一瞬で終わった。
「くっ……!」
「なかなかお見事でした。これ以上無理に続ける必要はありません」
淡々と礼を言い、男は剣を下げる。これ以上はやっても無駄だと言外に告げている。それを悟ったエリオットの顔が赤く染まり、視線を逸らした。
周囲の兵たちに嘲笑はなかった。だが、それがかえって痛かった。自分が取るに足らぬ存在であることを、誰もが当然のように受け止めている。そんな空気が刺すように伝わってきた。
(これが、〈剣聖〉の治める地の水準……これが……)
誇らしげだった〈聖騎士〉というスキルが、急に薄っぺらい紙切れのように感じられる。汗ではない、冷たいものが背を伝った。ふと、視線の先に、若い兵士が木剣を持ち、地面に汗を滴らせながら何度も素振りをしているのが見えた。
(あれは……?)
下級兵士のはずだ。だが、その一振り一振りには、何かに喰らいつくような執念がこもっていた。
彼の中で何かが崩れはじめた。
◆
「……なるほど。つまり、“魔の森”周辺の警備体制についても、貴家としては積極的に協力していきたい、というわけか」
重厚な椅子に腰かけた辺境伯爵は、手元の茶器に視線を落としながらも、向かいに座るエリオットの言葉を聞き逃さなかった。
「はい。父も私も、辺境伯爵家とは今後より深く連携を……いえ、私自身が、剣と信仰の加護をもって、いずれこの地における脅威の解決に尽力したいと願っております」
エリオットの声は、よく通っていた。だがその目は落ち着きなく、背筋もどこかぎこちない。訓練場での敗北がまだ尾を引いているのか、それとも最初から空虚な自信だったのか。
「ふむ。貴殿は、実戦のご経験は?」
「……ええ、ええ。もちろん、何度か……!」
一瞬の逡巡があった。伯爵の目が鋭く細められる。隣席の魔導士が控えめに首を傾げた。
「……辺境の地は、甘くありません。〈聖騎士〉の加護も、剣を振るうその腕がなければ、何の意味もありませんぞ?」
「も、もちろん心得ております」
エリオットは笑みを浮かべた。だがその笑みは、伯爵の重いまなざしを前に、次第に引きつったものへと変わっていった。
(くそ……なぜだ。スキルは俺の方が上だ。〈剣聖〉よりも……いや、少なくとも〈聖騎士〉なんだぞ……!)
そう思えば思うほど、かえって己の浅さが際立つ。冷や汗が背を伝った。伯爵の沈黙が、静かに青年を押し潰していく。
「エリオット殿。貴家の名誉とご努力は理解した。機会があれば、そのお力を拝見させていただこう」
「は、はは、光栄です!」
その機会が来ないことを、伯爵の声の温度が物語っていた。
◆
帰路の馬車の中、ガタン、と石畳を越えた揺れに身を任せながら、エリオットはただ黙って窓の外を睨みつけていた。
(……あれが、辺境伯爵。あれが〈剣聖〉)
胸の奥に、焼けるような感情が燻っていた。言葉こそ穏やかだった。だが、目が違った。最初から見下されていた。いや、値踏みされ、失望されたのだ。自分の何もかもが、まるで見透かされているようだった。
(まるで神の使いのような威圧感……。くそっ、スキルがあるのはこちらも同じ……! なのになぜ、俺は……)
指先が震える。唇を噛みしめた。
思い出すのは、訓練場での事。若い騎士たちの視線。模擬戦での惨敗。伯爵家の家臣たちの冷ややかな目。
(笑ってた。あいつら、俺を〈聖騎士〉と知ってなお、笑ってやがった)
そしてふと、思い浮かぶ顔がある。
弟、レオン。
無能で、スキルもなく、家を追われた雑草のような弟。
ある噂を伯爵家家中で耳にした。
レオンが冒険者としての実績を積み、ついに辺境伯領内にある、“魔の森”最奥の古代遺跡の調査に向かったという。そして、事もあろうに、伯爵家が密かに注目している存在になっていると。
(ふざけるな……! なんであいつが……!)
拳を握りしめる。
(あれは、ただの失敗作だ。いなくなって当然の……)
それでも、どこか心の奥で芽生える、理解したくない感情があった。自分にはない、あの冷たい目。あの諦めたようでいて、何かに食らいつくような意志の強さ──
(……次に会ったら、証明してやる。俺の方が“上”だということをな。伯爵だろうが、レオンだろうが、誰であろうと……)
馬車の窓の外、辺境の山々に沈む夕陽が、赤黒く空を染めていた。




