第149話 帝国の舵
時は少し遡る。
帝都、皇宮の奥深くにある漆黒の謁見の間。金と紅を基調とした玉座の間とは対照的に、この部屋は光を拒むかのような重々しさに満ちていた。
その中央に、帝国皇帝──ダリウス・ヴァルディールが座す。
彼を囲むのは、帝国軍最高司令官ガルヴァン・ドレイク将軍、内政局長官リューネ・ファーベル女史、〈灰色の眼〉諜報局長官ハルベルト・ライゼン、そして外務卿エーベルハルト男爵ら重鎮たち。
この面々が一堂に会する時、それは帝国の未来を決定づける時である。
「──さて、議題は対聖教国についてだ」
皇帝の声は低く、しかし鋼の刃のように鋭かった。その一言で、部屋の空気がさらに緊張する。
「先の鉱山跡地にて、聖教国聖騎士団との交戦を経て、三国の緊急会合から、既に三ヶ月が経とうとしているが……いまだに、聖教国からの正式な謝罪はない」
「謝罪どころか、陛下」
諜報局長官ハルベルトが静かに口を開く。
「聖教国は今なお、鉱山跡に聖騎士団を駐屯させたままです。警告を発しても、沈黙を装っている」
「我ら帝国と王国の共同管理地に、武装勢力を一方的に送り込み、なお撤退しない。これは侵略行為に等しい」
ガルヴァン将軍が拳を机に叩きつける。
「このまま看過すれば、帝国の威信は地に堕ちますぞ、陛下」
「わかっている」
皇帝は薄く目を細めると、静かに応じた。
「だが、今ここで単独で動けば王国に口実を与え、余計な反発を招く。王国も聖教国も、いずれは我らの掌の上で転がす。利用できるものは最大限利用し、捨てる時には一息で飲み込む──それが帝国の道だ」
「それにしても、この件に関して、王国側の動きは鈍いですな」
内政局長官リューネが首をかしげた。
「何か動けない理由でもあるのか?」
「……国内で第一王子ラグナルが混乱を引き起こしていると聞くが」
ハルベルトが応じる。
「王国の内情は分裂状態に近い。第一王子ラグナルは〈暗黒騎士〉との戦闘においての度重なる命令違反などを咎められ、現在謹慎中です。だが第二王子ユリウスは、一定の理性と現実感を持っている。彼との連携の余地はあるのではないか?」
「ふん。王国の内輪揉めに付き合っている余裕はない。何より戦の何たるかを知らぬ第二王子など宛てにはならん」
将軍が不満げに吐き捨てた。
「王国が内輪揉めをしているならば、むしろ好都合だ」
皇帝は冷笑した。
「奴らが内乱に気を取られている間に、我らが手を伸ばせばよい。王国は当面、敵ではない。だがいずれ、聖教国の次は奴らだ。兵を向けるかどうかは、その時の“帝国の利益”が決める」
「聖教国の行動には明確な意図がある。奴らは鉱山跡の“古代遺跡”を狙っているのではないか?」
リューネが口を挟んだ。
「その可能性は高いでしょう」
ハルベルトが即答する。
「王国の調査によれば、詳細は不明らしいが、あの遺跡は古代文明のものだとか。聖教国があれだけ拘るのを考慮すると、神聖なもの故に自分たちの管理下に置きたいのか、あるいは聖教国が忌避する“異端”に関係があるのか、でしょう。だが──彼らはその正体を知っているのか、あるいは……」
「知っていて動いているとすれば、なお悪い」
皇帝が低く呟いた。
「……いずれにせよ、兵を動かす理由が必要だ。聖教国が先に刃を向けてきたという事実だけでは、戦争には至らぬ。民意を得られねばな」
「ならば、我らは大義名分を作ればいい」
皇帝の目がぎらりと光った。
「ならば」
リューネが慎重に言葉を選んだ。
「聖教国の不法な駐留に対し、帝国民の保護を理由に軍を動かす。避難できぬ村民がいるとすれば、これを守る名目で出兵するのです。あくまで我らは“守護者”だと……それを口実に」
「それでよい。あくまで、我らは“守る者”であるという姿勢を崩すな」
リューネが頷いた。
「民意を動かし、王国にも口を出させぬ形で軍を展開できます」
皇帝が頷き、静かに続けた。
「よいか、これは聖教国との小競り合いではない。“神”を盾にする狂信者との、本格的な衝突の前哨戦と心得よ」
皇帝の言葉を受け、会議の空気はさらに引き締まった。
重苦しい沈黙の中、外務卿エーベルハルトが重々しく口を開いた。
「……問題は、王国の動きですな。あの国がどう動くか」
「うむ。あの国は──いちいち動きが遅すぎるのだ」
将軍が忌々しげに吐き捨てた。
「先の鉱山跡地の紛争では、我が帝国軍が先に動いた。それでなければ、聖教国に主導権を奪われていたぞ」
「王国は軍事行動を最後の手段と考える。有力貴族議会の干渉もあって即断できぬのでしょう」
リューネが冷静に補足した。
「だが、被害を受けたのは王国も同じ。我々と立場は共有できるはずです」
「問題は、その“はず”が確実でないことです」
ハルベルトが、鋭い目を光らせて言った。
「我々にとって王国は、時に優柔不断で、時に内部で割れた不安定な隣国に過ぎない。判断を誤れば、聖教国に与する可能性もある」
「ありえん。あれほどの被害を受けて、聖教国と手を組むなど──」
「感情で判断するな、将軍」
皇帝が一言で制した。
「政治とは、損得で動くもの。信念より利益が勝る場面もある」
一瞬の静寂の後、外務卿エーベルハルトが声を発した。
「陛下、この際、聖教国に対し、先日の会談の際の不義理、戦闘行為の責任について謝罪と賠償、そして聖騎士団の完全撤退を求めては? それも正式に、堂々と、です」
「だが、あの国がそんなことをするとは思えん。その気があるなら既にやっていよう」
「それでよいのです。非は聖教国にあるにもかかわらず、かの国はその明らかな非を認めない、と、王国含む周辺勢力に周知すればよいのです。となれば、聖教国の“正義”が揺らぐことになります」
「……なるほど。奴らを孤立させていき、しかもこちらは名分を作りやすくなる、ということか」
「はい。その上で、さらに撤退を求めます。再三の撤退要求に応じないとなれば、もはや名分はこちらにあります」
外務卿の意見にハルベルトが賛成の声をあげる。
「ふむ、迂闊には動けない今、それは妙手ですな。外交で聖教国の非を責め、同時に内部の調査を行いましょう。あの国はまだまだ内情がわかりませんからな」
「あとは王国がどう動くか、ですが……」
「おそらく傍観、もしくは仲裁的な立場に落ち着くのでは? 王国が軍事行動を選択するには時間がかかるだろう」
「軍事同盟、とまではいかぬものの、王国との二国間協議をより強固にする必要がありますな」
それを受けて皇帝も意見を取り上げる。
「よかろう。では、その方針で決定とする。すぐに手を打て。外務卿は聖教国に対し、正式に謝罪と賠償及び聖騎士団の撤退を求めよ。同時に周辺勢力にも周知するのだ」
「承知いたしました」
「諜報局長官は、聖教国内の内情を洗いざらい探れ。聖教国の弱みは必ずある」
「御意」
「将軍は鉱山跡周辺の民を保護するという名目で、現地に軍勢を展開せよ。内政局長官はその補佐を。民を保護するのだ。希望者がいる場合、他の地に移住を認めてもよい。無償でな。公費から出してやれ。民心を味方につけるのだ」
「承知いたしました」
皇帝は最後に低く告げる。
「これより帝国は、聖教国を足掛かりに勢力を拡大する。王国も、いずれは聖教国と同じ道を辿る。誰も我らの覇道を止められぬと知らしめろ」
「ははっ!」
重臣たちの声が、漆黒の謁見の間に響き渡った。
この日、帝国はついに軍事国家としての姿を隠そうともせず、周辺諸国への支配を視野に動き始め、聖教国に対する軍事行動へと舵を切った。
だが、聖教国も王国もそれをまだ知らない。




