第146話 新たな疑念
その部屋には、窓というものが存在しなかった。黒曜石のように冷たく光を吸い込む壁、蝋燭の灯火ですら赤黒く染まって歪む空間。〈黒翼〉幹部たちは巨大な円卓を囲み、影の中にその姿を潜ませていた。
ここは〈黒翼〉の幹部会議──“影の円卓”。光なき世界の主たちが集うその場には、苛立ちと焦燥、そして抑えきれぬ恐れが満ちていた。
「……イーリスは敗れた。あの少年に、な……」
冷たい声が闇を割る。
中央に立つのは、顔の半分を仮面で覆った長身の男。声すらも幾層もの重なりで響いているように聞こえた。名を〈漆黒の導〉アルマ。
「“影の使徒”が……返り討ちにされたと?」
別の幹部が言葉を呑むように問い返す。椅子の影から、爬虫類のような舌がちらりと覗く。
「致命傷こそ避けたが、深い損傷を負った。癒しの術も拒絶し、回復に時間がかかる。……我らが誇る“影の使徒”が、凡俗の血すら引かぬ異端者に──!」
怒りを込めた声が会議の空気を震わせるが、それに応じる声はない。
やがて、別の者が口を開く。ラザフォードと繋がる通信石からの報告を読み上げる女。白骨のような指を組みながら、静かに言葉を紡いだ。
「……聖教国に潜入しているラザフォード枢機卿より。禁書庫への侵入は一部の者に露見。監視が厳しくなり、行動が制限されている模様。また、〈門〉の位置を示す記述や、ベリアナの復活儀式に関する情報は、いまだ得ら──」
報告の声が続く中、黒装束の通信使が駆け込んできた。
「……緊急報告です!! 聖教国に潜入していたラザフォード枢機卿ですが……事が露見した模様です!」
円卓の空気が、瞬時に凍りつく。
「最後の通信の後、転移の術式が発動。ただし──不完全な発動の模様で、転移先は不明。座標の固定がなされぬまま強行されたと推測されます。恐らくは追撃を避けるための即時発動。……さらに、聖教国内に築いていた潜入拠点からも、反応がありません。おそらく、同時に摘発されたものと……」
通信使の報告が終わると同時に、円卓の一角で乾いた音が響いた。誰かが拳を打ち下ろした音だった。
「……長年、長年かけてあの枢機卿の地位を築かせたのだぞ……!」
低く怒気をはらんだ声。だがそれは、氷山の一角に過ぎなかった。
「禁書は? 〈門〉の手がかりはまだ得られていなかったのか?」
「……はい。最終報告では、引き続き調査を、と。しかし、その直後に……」
言葉はそこで途切れた。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、円卓全体に怒号と呪詛めいた呻きが轟く。
禁書の調査──ベリアナを復活させる方法を求めての密命。それを進めていたというのに、すべてが水泡に帰した。誰もが焦っていた。潜入網の壊滅。長年の工作の失敗。そして何より──
「これは偶然ではあるまい。……我らの動きが、何者かに読まれている」
重く静かな声が、円卓の最奥から響いた。その主は、ただ静かに全体を見渡す。幹部の中でもとりわけ〈門〉の解放──ベリアナの復活を強く望む、黒羽ノ令嬢。
「次の一手を急がねばなるまい。一刻も早く〈門〉を突き止めるのだ……神々に代わる時代を、この手で開くためにも」
会議の空気が冷たく沈んだ。
誰もがそれぞれに苛立ちを抱えていた。情報は得られず、動けば痕跡が残る。
◆
会議の終わり際──その場の空気を切り裂くように、誰かの気配が現れた。
「……遅れて申し訳ありません。報告があります」
影の揺らぎの中から現れたのは、一人の幹部。名はザイラス。
かつて、鉱山跡に築かれた邪神の墳墓にて、エリオットを〈鍵〉とした復活の儀式を主導した一人であり、以来、消息を絶っていた男だった。
「ザイラス……貴様、生きていたのか」
複数の幹部が眉をひそめ、驚きの声をあげる。
「王国に捕らわれたと聞いたが――」
「処刑されたはずでは?」
「かろうじて命を拾い、我らが影の手により奪還されました。処刑の寸前まで拷問を受けましたが、私は耐え抜きました……」
ザイラスはゆっくりと跪き、血の滲んだようなローブの端を広げて見せる。
その傷は、実際に受けたものだった。
だが、すべてが“真実”というわけではない。彼が囚われていたのは事実だ。しかし、口を割らなかったというのは──嘘。
恐怖と痛みに屈した彼は、尋問官に本拠地の位置の一部、古い接触経路、諜報員の暗号の一端すら漏らしてしまっていた。〈黒翼〉が本拠地移転をしていなかったら、今頃は組織そのものが追い込まれていたかもしれない。
だが、ここにいる者たちの誰一人として、そのことは知らない。
「……して、報告とは?」
アルマが沈んだ声で問う。
ザイラスは静かに息を整えると、会議の中心へと一歩踏み出した。
「──先日の、鉱山跡での儀式の際のことです」
「儀式? エリオットを媒介にした、邪神復活の試みか」
「はい。その最中……奇妙なことが、ありました」
重く落ちる言葉に、幹部たちの視線が集まる。
「奇妙とは……どういうことだ?」
「レオンが、儀式の場に現れた際のことです。彼は言ったのです。“復活などできない”と。“知っている”と」
幹部たちの間にざわめきが走る。
「……何だと?」
「聞き違いではないのか?」
「はっきりと、言い切っていました。まるで、すべてを知っているかのように。自信と確信に満ちた、あの目……」
ザイラスはその瞬間を思い出し、無意識に喉を鳴らした。
「そして、儀式は失敗しました。力が集まらず、兆しすら現れなかった。私たちは何度も術式を練り直したのです。兆候はあったはず……だが、失敗した」
「つまり……」
「レオンは、本当に“何か”を知っているのではないか、と私は考えています。儀式が成就しない根本的な理由を、あるいは──」
「まさか、奴が封印や復活の仕組みに通じているとでも言うのか?」
懐疑の声が飛ぶ。
「ならば、奴を捕らえて情報を引き出せばよい。力づくでも」
「言うは易し、だ。イーリスですら返り討ちに遭い、いまだ回復にすら至らぬというのに!」
反論の声が上がると、幹部の間で一気に空気が荒れる。
「ではどうする? このまま様子を見るのか?」
「いいや、放置すれば奴はさらなる“真実”に近づく。我らの根幹に触れる前に、手を打つべきだ」
「そもそも、何を知っているというのだ? あれはただの……いや、もはや“ただの”ではないのだろうが……」
「それに、奴が“知っている”と断言したことが、あまりに都合がよすぎる」
「……何が言いたい?」
「裏があるのではないかということだ。誰かが、奴に情報を与えているのではないか。かつて我らが持っていたはずの秘儀、あるいは……異なる系統の知識を」
さらにザイラスが衝撃的な報告をする。
「レオンは……ベリアナの名前まで知っていたのです。つまり、我々の“目的”を知っているということです」
一瞬、空気が凍りついた。
「なぜ奴が知っているのかはわかりませんが……それは偶然ではありえない」
沈黙が広がる。
それは誰もが考え、だが口にすることを恐れていた疑念だった。
(レオンは、何か別の“真理”に触れつつある)
その可能性こそが、〈黒翼〉の最も忌むべき未来だった。
ザイラスはその空気を感じ取りながら、静かに最後の言葉を告げた。
「……奴の行動は、もはや偶然の産物ではないと、私は確信しています。だからこそ、早急に“手”を打たねばならないのです」
その言葉に、誰も即答できなかった。
なぜなら彼ら自身、その“手”が打てる相手かどうか──レオンという存在が、もはやただの人間で済まされない何かに到達しつつあると、無意識に悟り始めていたからだ。
そして、気付かぬまま焦燥と恐怖が、〈黒翼〉という組織の中に静かに広がり始めていた。




