第141話 苛立ちと野望
重厚な扉が音を立てて閉じられた瞬間、ラザフォード枢機卿はその場に巻物を叩きつけた。壁を埋め尽くす書架の上で、古びた燭台の炎が揺れ、不穏な気配が静寂の中に滲む。
ここは聖教国でもごく限られた者──枢機卿たちの執務室の中でも、ラザフォード個人に割り当てられた私室である。
机の上には、禁書庫から持ち帰った古文書の一部が広げられていた。ページは所々が焼け焦げ、肝心な部分の文章は無惨に破り取られている。
「……なぜだ……なぜここまで来て、肝心な部分が抜け落ちている……!」
低く、苛立ちを露わにした声が、部屋の空気を震わせた。
(これほど手を尽くしてなお……空虚な断片しか手に入らぬとは。誰が……誰がこんな細工を?)
〈門〉の正確な位置も、ベリアナを復活させるための術式も、どれ一つ明確には記されていない。
──確かに、神がベリアナを封じたことは記録されていた。だがその先がない。最も核心となるはずの箇所が、意図的に削がれ、記録から消されていたのだ。
「これでは……ただの断片の寄せ集めではないか!」
ラザフォードは椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、部屋の奥を荒々しく歩き回る。
その顔には、もはや神への畏敬など微塵もない。怒り、焦り、そして欲望──知識を渇望する彼の精神が、不完全な記録によって掻き乱されていた。
(なぜ削られた。なぜ、これほど重要な部分が欠けている? 偶然ではない。これは“誰か”の手による封印だ……)
(だが、誰が? 神か? 教会か? それとも、あの……先代たちか?)
失われた知識の行方を追い詰める思考の中で、怒りは次第に内側から湧き上がる熱に変わっていく。情報が手に入らないという苛立ち。真実に手を伸ばしかけてなお、指の隙間から零れ落ちるかのような、焦燥と欲求不満。
その裏で、彼自身の中に巣食う知識欲──禁忌をも貪ろうとする内なる声が、なおも呻くように訴えていた。
(私はもっと知るべきだ。神すら忘れた記録であろうと──私は、それを理解できる。この手で全てを再構築できるはずだ)
(愚かしい。神も教会も、真実を隠すばかりだ。ならば……この私が解き明かす以外、何がある?)
(ベリアナ──創造と均衡の神。その力の断片でも得られれば……いや、もし完全なる顕現を導けるのなら……)
その思考に至った瞬間、胸の奥が熱を帯びる。
信仰でも忠誠でもない。もっと原始的な、そして危険な熱。
(なぜ、彼女の力を他の誰かが持つ必要がある? なぜ、あの黒羽ノ令嬢が? なぜ、〈冥主〉が?)
(この私──ラザフォードこそ、選ばれるべき存在ではないのか)
言葉にならぬ声が、胸の内で囁き、渦巻く。
最初は違和感だった。だがそれは、日を追うごとに確信に変わっていった。
〈門〉を巡る文献を漁れば漁るほど、彼の中に芽生えた思想は根を張り、太く、深く育っていく。
(私は聖教の頂点に立ち、禁を破る覚悟を持ち、影と光の双方に精通している。ならば、導かれるべきは私だ……他の誰でもない)
(〈黒翼〉? 〈冥主〉? その力を借りたのは、あくまで手段にすぎぬ。利用するための器だ)
彼の心は、かつての忠誠から大きく逸れていた。
いや──最初から、忠誠などなかったのかもしれない。目的のために手を組んだにすぎず、心の奥底では常に、己こそが頂点に立つ存在だと信じていた。
(いずれ〈門〉の所在地が判明すれば、その時は──)
(すべてを捨てる覚悟がある。〈冥主〉も、〈黒翼〉も、聖教も。誰にも渡すものか。あの力は……私のものだ)
その野望は、もはや抑えきれないほどに膨らみつつあった。
……それこそが、彼の行動を焦らせ、怒りを増幅させている根本だった。
そんな中、視線が机の端に置かれた別の報告書に留まる。
ざっと目を通し、その内容に眉をひそめた。
──禁書庫内に不審な動き。
──結界への干渉。
──閲覧記録の重複。
──〈黒翼〉と思われる者の侵入を確認。
「──余計な真似をしおって!!」
彼は怒号とともに、羊皮紙を握り潰し、机を激しく叩きつけた。
「私が、既に動いているというのに……! なぜ他の者が勝手に──!」
(〈冥主〉か……黒羽ノ令嬢か……無能な〈黒翼〉の末端か? 何も分かっておらぬくせに私の領域を穢すなど……!)
(お前たちのような浅薄な連中に、何が掴める。何が到達できる?)
(愚か者どもが……計画の価値も、危険性も、何一つ理解していない。浅薄な功を焦って動いた結果が、これだ)
(このままでは……私の動きが疑われる。余計な視線を集めてしまえば、台無しだ。すべてが──)
怒りと苛立ちが燃え盛る中、それでも、今は動けないと理性が制止する。
禁書庫の調査は、当面控えるしかない。今は軽々しくは踏み込めない。視線を集めてはならぬ。
だが、内心では煮えたぎるものを抑えきれなかった。
(耐えろ。時が来れば、すべてを動かせる。私が、世界の構造を変えてやる)
(その時こそ……誰も私を止められぬ)
忌々しげに歯を食いしばりながら、ラザフォードは机の引き出しから黒い魔石を取り出した。掌に乗せると、それは闇を結晶にしたかのように、周囲の光を吸い込んで沈黙する。
「……〈冥主〉よ。我らが主よ。進捗は芳しくありません。禁書は断片的で、肝心の情報が封じられています。ですが、引き続き調査を継続いたします……ご容赦を」
声はかろうじて抑えられていたが、そこにかつての敬意はない。
報告はもはや形式だけ。中身のない言葉を並べながら、ラザフォードの内心は別のことを考えていた。
(……報告など、いずれ不要になる。私がすべてを得たその時には──お前も、ただの過去になる)
魔石は応えない。ただ沈黙だけが返る。だが、その沈黙すらも、今の彼には嘲笑に聞こえた。
(……笑っていろ。いずれ、お前すら従える力を手に入れてみせる……私は“奪う者”だ)
引き返すことはできない。
ラザフォードは、今や聖教の頂点に迫る地位にある。だが同時に、〈黒翼〉の道具として〈冥主〉に仕えてはいるものの、その内には、既に“裏切り”の種が芽吹いていた。
(……私を疑う者など、今のところはいない。私はうまくやっている。すべて順調だ。何一つ、間違っていない)
(仮に、いたとしても……排除すればいい。それだけだ。邪魔者は、いつだって……そうしてきた)
そう心中で吐き捨てながらも、内に渦巻く怒りと焦燥は収まらなかった。
──だが、彼はまだ知らなかった。
静かに、確実に。
既に、彼の“内側”にいる者たちが、わずかな綻びを察知し、疑念を抱き始めていることを。
そして、その包囲の輪が、彼の知らぬところで、じわじわと狭まりつつあることを──。




