第137話 問い
蝋燭の灯がわずかに揺れる地下礼拝堂。
重なる足音も、剣の音もない空間に、セリーヌの声だけが静かに響いた。
「──まず、お伝えしたいのは、これは私個人、そして〈聖女〉セラフィーナの意志による行動です。教皇や枢機卿会議の意ではありません」
レオンの眉がわずかに動く。だが口を挟まず、続きを促した。
「先日、禁書庫の一角から、ある禁書が……一部のページごと切り取られていることが判明しました。その一節に、“神はベリアナを封じた”という記述がありました。ですが、それ以降の部分――“封印の場所”や“封じられた真意”に関する部分が、丸ごと消されていたのです」
レティシアの表情がわずかに険しくなる。
セリーヌは小さく息を吸い、語調を落とした。
「閲覧記録は操作されていましたが、調査によりラザフォードという枢機卿が関与していたと断定しています。禁書庫の守人はすり替えられており、結界の監視網も、意図的に緩められていた……そしてなにより──」
彼女はレオンをまっすぐに見つめた。
「レオン・アルテイル。あなたに対する暗殺計画を最初に提案したのは、ラザフォードでした。会議では異端、混乱の芽を摘むべきと主張し、結果二度にわたる実行に聖教の名を用いました。……ですが、〈聖女〉はそのことに、深く心を痛めていました」
レオンの表情にわずかな陰りが差す。
「──彼女は、私に言いました。『もし神が何も語らぬのであれば、自ら真理を問いに行くべきだ』と。だから私は、あなたに接触しようと決めたのです。……ラザフォードは、〈黒翼〉と通じている可能性があります。あるいは、既に“そのもの”であるとすら」
言葉を終えたセリーヌは、静かに頭を下げた。
礼拝堂を沈黙が包む。
やがて、レオンがゆっくりと口を開いた。
「……なるほど。おそらくラザフォードとかいう枢機卿は〈黒翼〉の一員と見て間違いないだろう。奴らの狙いはベリアナの復活か。そのために禁書を調べていた、か」
その口調は静かだったが、確信に満ちていた。
そして視線をセリーヌへと戻し、少しの間を置いてから問う。
「それで? 聖教国……いや、〈聖女〉とあんたは、これからどうするつもりなんだ? 俺に何を期待している?」
真っ直ぐに投げかけられた問いに、セリーヌは少しだけ目を伏せ、だがすぐにしっかりと顔を上げた。
「──浄化です。聖教国内部の。腐敗と欺瞞にまみれた上層部を、一つずつ暴き、排除する」
その声は、若き異端審問官という肩書きに似つかわしくないほど、透徹していた。
「ラザフォードのような存在が教義の名の下に暴走するなら、それを止める責務が私たちにはある。神の沈黙に縋るのではなく、神の真意を問う資格を得るために、私たちは内から正さなければならない」
彼女は一歩、レオンに近づいた。
「レオン・アルテイル。あなたにすべてを託すつもりはありません。協力という言葉も、今は軽く響くでしょう。ですが──どうか、聖教国、いいえ、〈聖女〉に手を貸してください」
そう言って、彼女は両手を前に揃え、深く頭を下げた。
「これは、私の願いです。聖教という“組織”ではなく、一人の人間として……あなたにしか頼めないと思ったから」
静まり返った礼拝堂の中で、蝋燭の灯が再び揺れる。
その光は、祈りにも似た彼女の言葉の輪郭を、わずかに強く照らしていた。
レオンは黙ったまま彼女を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、苦笑に近いものを浮かべる。
礼拝堂の静寂を破るように、レオンが口を開いた。
「……俺は、聖教国が言うところの“異端”だ」
その声音は淡々としていたが、奥に宿る熱は否応なく相手に伝わるものだった。
蝋燭の炎がわずかに揺れる。セリーヌが瞬きをした。
「俺はスキルを授からなかった。にもかかわらず、力をつけた。……ただ、それだけの理由で排除の対象だと命を狙われ、暗殺部隊を送られた。二度もな。言い出したのはラザフォードでも、それに反対はされなかったんだろう? ラザフォードが言わなくても他の誰かが言っただろうことは容易に予想がつく。もっとも、返り討ちにさせてもらったがね」
彼の瞳がまっすぐにセリーヌを捉える。そこには怒りよりも、もっと深いもの──諦念と、それでもなお、尋ねずにはいられない問いがあった。
「……異端審問官として、あんたはどう思う? この世界において、俺は、やはり許されない存在なのか?」
沈黙が落ちた。
レティシアは黙ってレオンの隣に立ち、敢えて口を挟まない。
レオンの言葉はなおも続く。
「俺は与えられなかったから、ただひたすら努力をした。それだけだ。必死になって、命を賭けて、自分にできることを極めようとした……生きるために。その結果、力を手に入れただけだ。それでも“異端”か? “選ばれし者”は、努力も何もしなくてもいい、だが“持たざる者”は努力すら許されないっていうなら、この世界はどこまで傲慢なんだ?」
レオンの声はなおも静かに、しかし確かな重みをもって言葉を紡いでいく。
「“持たざる者”にも、生きる価値がある。スキルを持たぬ者にも、未来を選ぶ権利がある。だが、神は、世界はそれを否定する。──本当にそれは、正しいことなのか?」
その一言が、セリーヌの中で何かを決定的に突き崩した。
言葉が出なかった。
答えようとして、喉がつまる。
心の奥底から湧き上がる衝撃が、思考を麻痺させていた。
異端審問官として──それも、優秀とされてきた立場の人間として、これまで一度として疑問に思わなかった“当然”に、問いすら持たなかった事実に対し、彼は真正面から問いを投げかけたのだ。
「……そんなこと、考えたこともなかった……」
セリーヌは小さく呟いた。自らの無知と無関心に、思わず愕然とする。
スキルを授かるのが当然。授からぬ者は“不運”か“欠陥”。それは制度であり、教義であり、そして空気のように当然だと信じていた。
それを疑うことさえ、許されなかったわけではない。ただ、気付かなかった。なぜなら、与えられる側にいたから。選ばれたと思い込んでいたから。
そんな彼女の動揺を見て、レオンはふっと目を細め、静かに言葉を継いだ。
「……別に、あんたを責めてるわけじゃない」
その声には、怒りも棘もなかった。
「この世界がそういう仕組みだってことは、よくわかってる。だから俺は、その枠の外に出て、生きている。それだけだ」
静かに、淡々と。そこに怒りも恨みもなく、ただ真摯に己の道を歩む者の決意があった。
セリーヌは目を伏せ、小さく息を吐いた。
否定も肯定もできず、ただ心の底から自らの未熟さを痛感していた。
それでも、レオンが対話の場に応じてくれたこと──それは紛れもなく、奇跡に近い第一歩だった。
「……せっかく対話を望んで来てくれたんだ。無下にするわけにもいかないか……」
蝋燭の炎が、ゆらりと揺れた。
その揺らぎに重なるように、レオンの声が静かに響く。
「……もちろん、完全に分かり合えたわけではない。譲れないものもあるだろう? お互い、立場も、見てきた景色も違うからな」
彼は一拍置き、真っ直ぐにセリーヌを見据えた。
「まず、はっきりさせておく。俺は聖教国のために協力する気はない。それがあんたや〈聖女〉の頼みとあってもだ。聖教国を浄化したいというのならば、それはあんたたち自身がやるべきことだ。俺が肩代わりする理由はどこにもない」
言葉は淡々としていたが、その芯には揺るぎない信念があった。
「俺が協力できるのは、〈黒翼〉のような存在に関することだけだ。奴らを放っておけば、それは多くの民にとって害となる。だから俺は動く。それだけの話だ」
そして、ほんの一瞬だけ、彼の声が静かに、しかし強く響く。
「……俺が動くのは、腐りきった権力者のためじゃない。“選ばれし者”の傲慢によって迫害される、“持たざる者”たちの──何も持たぬが故に声すら奪われてきた者たちの、自由と平和のためだ」
その言葉は、熱ではなく静かな炎となって、空気の中に残った。
セリーヌの目がわずかに見開かれ、そして安堵に揺れた。
完全な味方ではない。それでも、話を聞き、線を引いた上で手を貸してくれると告げた男の覚悟に、彼女は確かに救われた。
「……ありがとうございます。レオン──」
だがその名を呼ぼうとした瞬間、彼は右手を上げて制した。
「……一つ訂正しておきたいことがある」
セリーヌが小さく首を傾げる。
「俺は“アルテイル”の家名を捨てている。あれは、もう俺にとって過去だ。──今後は、ただのレオンでいい」
その口調には、断ち切った過去への悔いも、未練もなかった。ただ一人の人間として、まっすぐに立ち、これからを歩む覚悟だけが滲んでいた。
セリーヌはその言葉を深く受け止め、小さく頷いた。
「……わかりました。レオン。改めて、感謝します。貴方がこの対話を拒まず、時間を割いてくれたこと。そして、たとえ敵となる可能性があると知りながらも……それでも、こうして言葉を交わしてくれたことに」
彼女はほんのわずかに表情を緩めた。
その微笑には、信仰に囚われない一人の人間としての誠実な想いが込められていた。
「貴方がこの街に滞在している間に、密かに連絡手段を整えます。魔道具経由になりますが、安全性は保証します。頻繁なやりとりには向かないけれど、緊急時には確実に繋がるものを」
レオンは頷いた。
「それでいい。俺も、そう長くここにはいられない。おそらく、また、場所を移すことになる」
「承知しました。……それまでに、準備を整えます」
それきり、言葉はなかった。
だがその沈黙には、確かな意志と、新たに結ばれた小さな同盟関係の重みが漂っていた。
外の世界がいかに混迷していようとも──
この一夜、この地下礼拝堂で交わされた約束は、確かに希望の芽となる。
蝋燭の火が、最後に一度大きく揺れ、三人の影を壁に映し出す。
こうして──闇と真実を巡る“同盟”の萌芽が、静かに生まれた。
交錯する信念と覚悟が、静かに一つの道筋を描き始めていた。
──そして、その道の先に待つものが、救済か、あるいは破滅か。
まだ誰も知らなかった。




