第136話 対話へ
薄明の空の下、セリーヌは再びルサールの店を訪れていた。
地下室の空気は変わらず湿っており、静かな中に時折、壁を這う水の音が響く。
「……間違いないのね? あの地下水路で戦った者はレオンで」
「十中八九、そう考えていい。少なくともあれほどの痕跡を残せる剣士は、この街にそう多くない。しかも、君が動いた直後に気配を絶った。それは、向こうも君の存在に気付いたということだ」
ルサールは、意味ありげに笑った。
「そして……君の狙いは、敵対ではなく、対話なんだろう?」
セリーヌはゆっくりと頷いた。
「私は彼を敵として探しているわけではない。……伝えてほしい。“話し合いたい”と。私は、〈黒翼〉と通じる者を追っている。それだけが目的だと」
ルサールは一度目を伏せ、それから小さく笑った。
「なるほど、〈黒翼〉か。本気なんだな? ……了解。だが警告しておく。レオンの方も君を“警戒”はしている。選び間違えれば、対話ではなく剣になるぞ」
「分かっている。けれど、真実に近づくには彼の協力が必要だ。彼と、今の聖教国の欺瞞を正面から見据えねばならない」
その言葉に、ルサールの目が少しだけ細まる。
まるで、その覚悟の重さを測っているかのように。
「……いいだろう。伝えてみよう。彼が首を縦に振れば、その時は──」
同じ日の夜、ラドニア郊外の廃工房。
レオンは火の落ちた炉の傍らで、ルサールの使いの男の話を聞いていた。
「……“話がしたい”、か」
「“〈黒翼〉と通じる者を追っている。それが目的だ”……そう伝言を預かっている。差し迫った敵意は、少なくとも今の所は感じられなかった。念のため、直接対面ではなく、まずは場所と日時の調整を通して意思の確認をと」
「……どうする?」
レティシアの問いに、レオンは少しだけ思案してから口を開いた。
「会ってみるか……彼女が本当に、〈黒翼〉を追っているなら、それは俺たちにとっても重要な情報になる」
「罠かもしれない」
「それでも、今の聖教国で、上層部に疑いを向けて動ける人間は稀少だ。……本気で疑念を持ち、変えようとしているのなら、見極める価値はある」
レティシアは小さく息をついた。
「わかった。警戒は私が張っておく。何かあれば、すぐに遮断する手筈も整えておく」
「ありがとう、頼むよ」
翌日、情報屋を介して調整された会談の条件は、互いにとって慎重かつ現実的なものとなった。
──会談の日は、三日後の晩。
──場所はラドニア旧市街にある、封鎖された礼拝堂跡。
──時間は日没後、外部からの監視を避けられる夜の八刻。
──双方、最小限の同行者を一人のみとし、互いに明確な武装を控える。
セリーヌはその知らせを受け取り、〈聖女〉に再度報告を済ませた上で、礼拝堂跡への下見を自ら行った。
かつての聖堂建築は半ば崩れ落ちていたが、地下には簡易な礼拝室が残されており、密談には適した空間だった。
一方のレオンも、事前に現地の構造と周辺の導線を確認。レティシアと共に、複数の退路と感知結界を密かに準備しておいた。
そして──
いよいよその日が、静かに、だが確実に近づいてきていた。
それはただの接触ではない。
両者にとって、今後の運命を左右する“会談”。
信じるか、疑うか。
手を取り合うか、それとも斬り結ぶか。
すべては、この一夜に委ねられることになる。
◆
ラドニア旧市街の外れにある、封鎖された礼拝堂跡。
瓦礫の山を抜け、朽ちかけた階段を下りた先に残された地下礼拝室。
その空間は、古びた石造りながらも意外なほど静謐さを保っていた。
蝋燭の灯りが、仄かに壁を照らす。
時間よりも早く、セリーヌはその場に一人で立っていた。
纏う衣は聖教国の上級神官としての礼装ではなく、活動に適した実戦装備。
だが、装飾の一部には彼女が“聖女の側近”であることを示す微かな意匠が含まれていた。
そろそろか──。
ふと、空気の揺らぎとともに、入口から二人の気配が差し込む。
一人は、年若い男。
白い外套、栗色の髪、瞳に深い光を宿した者。
そして、その傍らに立つのは──金髪のエルフ。
精霊の気配を帯び、常人の眼には映えすぎる美貌と警戒を隠さぬままに。
セリーヌはすぐに気付いた。
彼らが特に何も、魔道具を使用してはいないことに。
(あえて……姿を隠さず、現れたということは──)
彼の真意を量る間もなく、レオンが一歩、前に出た。
「……レオンだ」
名乗る声音に、余計な抑揚はない。
だが、その静けさの中に確固たる意志と覚悟がある。
続いて、隣のレティシアが目を細めながら一礼する。
「レティシア・リューンフェル。ラグナエルの民として、彼の護衛にあたっています」
セリーヌは胸元に手を当てて、丁寧に頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です。私はセリーヌ・クローデル。聖教国の異端審問官、そして今は〈聖女〉セラフィーナ・ルクレティア直属の補佐官です。……まずは、こうして話し合いの場を設けていただいたことに、心より感謝申し上げます」
レオンは目を細め、少しの間、セリーヌを見つめた。
その視線は、敵か味方かを値踏みするものではない。むしろ、“何を語ろうとしているか”を見極めるための静かな観察。
やがて、彼は短く答えた。
「話し合いということなら、断る理由はない。それが敵意から来るものでなければ、尚更、な」
その言葉に、セリーヌは小さく息をついた。
(この人は……本当に、こちらを拒絶するためにここへ来たのではない)
小さな安堵が胸に広がる。だが同時に、それは──
今から語るべき真実の重さを、否応なく自覚させるものであった。
蝋燭の炎がわずかに揺れる。
その光のもと、三者の視線が静かに交わった。
これより、真実の扉が開かれる。
〈黒翼〉の闇に通じる者を巡り、信頼と猜疑が交錯する一夜が、今、始まろうとしていた。




