第135話 情報
ラドニア──三国と国境を接する自治都市。
交易と技術の拠点として、様々な情報と人が交差する「灰色の都市」。
王国、帝国、聖教国の三大勢力がそれぞれ目を光らせている、外交の最前線でもあった。
その街に、フードを目深に被った女が、一人、馬車から降り立った。
聖教国異端審問官──セリーヌ・クローデル。
〈聖女〉セラフィーナの名において、聖教国枢機卿会議より「対帝国諜報」の名目で派遣された特使。
だが、その本当の目的を知る者は、〈聖女〉ただ一人だった。
「……人の声が、溢れている」
舗装されきらぬ石畳の道、呼び込みを叫ぶ行商人、鋳鉄の煙を吐く工房、酔客の笑い声──聖都とはあまりにも異なるこの喧騒に、セリーヌは内心わずかに眉をひそめながらも、表情は変えなかった。
(この混沌の中に、彼はいる。どこかに)
ラドニアの街は広い。
だが、セリーヌには宛てがあった。
一人、かつて異端審問官として地方で活動していた頃に繋がりを持った“情報の売人”が、この街にいるはずだった。
まずは情報の足場を固める──
そう考えた彼女は、さりげなく宿を確保し、街の主要な出入口に設けられた兵の配置、通報体制、監視の様子を調査しながら、街の構造を頭に叩き込んでいった。
商業区、鍛冶屋通り、旧鉱山跡、傭兵が集う酒場、そして裏通りにあるスラム地区。
(目立たぬが、静かに潜む何かがある……)
王国軍、帝国の密偵、聖教国の隠密──この街には、あまりに多くの“目”があった。
だが、その中で、彼女の目が最も異質だった。
純白の信仰に裏打ちされた冷厳な眼差し。
だがその奥に宿るのは、確かなる“意志”。
ある晩、セリーヌはとある裏路地に潜むスラムの少年に金貨を渡し、囁いた。
「“あの男”の居場所を、知っている者を探して」
少年は目を見開き、躊躇いながらも頷いた。
その情報は、数日後、意外な場所から返ってきた。
──鍛冶屋通り裏の工具店、その地下に“目利きの情報屋”がいる。
彼は、誰にも所属せず、ただ金と「面白さ」だけで動く変わり者。
だが、その男の口から漏れた情報が、王都の粛清を左右したこともあるという。
(やはり、彼を頼るしかない)
◆
翌日の夜、セリーヌは白衣を脱ぎ、黒ずくめの外套に身を包んだ。
腰には、細身の銀製の短剣と〈浄化の印章〉が仕込まれている。
彼女は工具店の奥の扉を叩いた。
──コン、コン、コン……一拍おいて、コン。
決まったリズムの暗号。
やがて、ギギ……と軋むように扉が開く。
「……“あの男”に会いたい」
セリーヌの低い声に、闇の奥から喉の奥で笑うような声が返った。
「おやおや……異端審問官殿が、こんな場所に何の御用で?」
彼女の瞳が、一瞬だけ光を灯す。
(この先に、レオンの行方を知る者がいる──)
セリーヌは、静かに歩を進めた。
地下への狭い階段を降りると、鼻を刺す油と鉄の匂いが立ち込めていた。
魔石灯が天井から吊るされ、赤錆びた棚と帳簿の山、そして中央の古びた机。
その向こうに、猫のような目をした細身の男が腰を下ろしていた。
「久しいな、“白き審問官”」
「……口が軽いな、情報屋。ルサール、と呼ばれていたか?」
「情報の価値は言葉にある。寡黙では食っていけなくてね」
ルサールは、爪先で机を軽く叩いた。
まるで取引を始める音のように。
「さて……王国の勇者の噂でも聞きに来たのかい? それとも、枢機卿会議からの御命令かな?」
「……どちらでもない。私はある男の行方を追っている。名はレオン・アルテイル。元は王国の貴族の子息だ」
「レオン……なるほど。君が来たのはそういうことかい?」
「最初に断っておくが、私は彼と争いに来たのではない」
「ほぅ……まあ、いいさ。実はちょうど昨日、一つ面白い報せが入ってね」
ルサールの笑みが、細く、鋭くなる。
「街の旧地下水路……数日前の深夜、そこで“何者か”が激しい戦闘を繰り広げた形跡が見つかってね。破壊された石壁、斬撃の痕、魔力の残滓。そして、異質な“気配”」
「異質な“気配”? 〈黒翼〉か?」
「可能性はある。だが――」
彼は指を一本立てた。
「それ以上に興味深いのは、その場にいた“もう一方”の存在だ。数少ない周囲の目撃証言によると、争った跡はあっても、戦闘中、そして戦闘の後も誰もその顔を見ていない。ただ、圧倒的な剣気と精密な気配遮断……多分、結界の魔法や、何らかの魔道具を使用しているのだろうな」
「……その者が、レオンかもしれないと?」
「確証はないが、可能性は高い。私は“あの男”と直接、接触したことはないが、話を聞く限り、相当な使い手らしいじゃないか」
セリーヌは目を細めた。
空気が、冷たくなる。
「ならば、彼はまだラドニアのどこかに……?」
「ああ、既に気配を絶って動いているよ。だが一つだけ、君に伝えておこう」
ルサールは口元を拭うように指を動かした。
「君がこの街で動き出した、その直後から、向こうも“警戒”を始めたようだ。直接争いを避けようとしながらも、確実に“目”を張っている」
「もう……見られている、ということか」
「当然だろう? そして、奇妙な話がもう一つある」
「なんだ?」
「その“目”は、君を敵とは見ていない。少なくとも、今はね。“自分を探しているが、殺しに来た者ではなさそうだ”と、向こうも分かっているらしい。……さて、どういうことだろうね?」
一方──ラドニア旧市街から少し外れた宿屋。
レオンは、剣の手入れを終えると、静かに顔を上げた。
「聖教国の者が、俺を探している……しかも、襲いに来る気配ではない、か」
傍らで椅子に腰かけていたレティシアが、眉をひそめた。
「奇妙ねぇ。前の刺客たちとは明らかに違うの? 今度は“探ろうとしている”感じ?」
「……カルドの話だと、聖教国の高位の者らしいな」
「じゃあ、暗殺者じゃないのかもね。それなら枢機卿じゃなくて、〈聖女〉の命で動いているのかもしれない。もしくは、何か別の意図か……」
レオンは窓の外に目を向けた。
夕暮れの空に、煙突の煙がゆらめいている。
「念のため、しばらくは動きを抑えるか。こちらからは接触せず、相手の出方を見よう」
「了解。私も結界の再構築をするよ。もし場所が知られていても、すぐには踏み込ませないようにね」
「そうだな……それと、俺の方からも、別の情報網に連絡を取ってみる。もしかすると、王国や帝国も動いているかもしれない」
それは、鋭く張りつめた緊張。
だが同時に、目に見えぬ希望の光が、セリーヌとレオン、両者の間に生まれつつあった。
──次に動くのは、どちらか。




