第134話 〈聖女〉への報告
〈聖女〉セラフィーナの居室は、聖都の中心にある大聖堂、その最上層に位置していた。
純白のレースがかかった窓からは月光が差し込み、祈りを捧げる〈聖女〉の姿を神秘的に浮かび上がらせている。
「……セリーヌ?」
微かに驚いたように、セラフィーナは顔を上げた。
日常の祈り以外に、異端審問官がこの時間に訪れることなど滅多にない。
だがセリーヌの表情は、それがただ事ではないことを伝えていた。
「夜分遅くご迷惑をおかけし、申し訳ございません。〈聖女〉様。……実は、極めて重要なご相談がございます」
一礼し、扉を閉めると同時にセリーヌは結界の印を描いた。
密室となった空間に、張りつめた沈黙が降りる。
「どうしたのですか?」
「……禁書庫に、侵入の痕跡がありました。結界の一部が意図的に破られ、閲覧台帳が改ざんされていたのです」
「……!」
「そして……一冊の禁書。『黒陽の記』──その中心となる章、“神がベリアナを封じた”という一節が、まるごと抜かれていました。物理的に、丁寧に、破り取られて」
セラフィーナの瞳が揺れる。その名──ベリアナ。それは古より、禁忌とされた堕天神の名だった。
「さらに、閲覧記録を秘匿し、結界に干渉できるだけの権限を持つ者……それに該当するのは、ただ一人……ラザフォード枢機卿です」
「まさか……」
セリーヌは静かに頷いた。
その声音には怒りではなく、冷徹な確信があった。
「彼は〈黒翼〉と通じています。あるいは、既にその一員である可能性も高い」
「証拠は……?」
「禁書庫の守護者が既にすり替えられていたこと、禁書の記録が消えていたこと、そして……」
一瞬、セリーヌは言葉を選ぶように瞳を伏せた。
「……レオン・アルテイルへの二度に渡る暗殺計画。その提案を最初に口にしたのは、ラザフォードです」
「……っ!」
セラフィーナの顔に明確な動揺が浮かぶ。
少年の名が出た時、彼女は胸に手を当て、小さく震えた。
「……やはり……彼を狙う理由が、ずっとわかりませんでした。スキルを持たぬ、ただの一人の者に……なぜ、あれほどまでに。異端と判断しても、あまりに執着し過ぎている」
「おそらく、〈門〉と、“力”に関わる何かを、彼が持っているのでしょう。〈黒翼〉の計画にとって、障害となるほどの何かを」
沈黙が流れる。
二人の間に灯された燭火が、わずかに揺れる。
セラフィーナはゆっくりと唇を開いた。
「……セリーヌ。あなたを、私の密使に任じます。今後、私の名のもとに、禁書庫と枢機卿会議、両方を監視して」
その声音はか細いが、確かな意志が宿っていた。
「そして……可能であれば、レオンに伝えてください。私は……あなたたちを信じています。どうか、正しき道を……」
セリーヌは静かに頭を下げた。
「仰せのままに」
こうして、聖教国の影の中でひそかに交わされた誓いは、やがて運命の歯車を大きく動かしていく──
◆
〈神の沈黙〉──禁書庫の石造りの通路に、セリーヌの足音だけが響く。
あの夜以来、書庫にも、枢機卿会議にも目立った動きはなかった。
ラザフォード枢機卿は、何事もなかったかのように祈りを捧げ、聖典を開き、慈善活動の記録に署名していた。
だが、セリーヌの目は欺けない。
(沈黙は、嵐の前触れ……)
ラザフォードが抜き取った禁書のページ、その内容が何であれ──〈黒翼〉は動いている。
ならば、こちらも先んじて動かねばならない。
セリーヌは密かに、かつての異端狩りで得た私的な諜報網を動かしていた。
目的はただ一つ──レオン・アルテイルの所在を突き止めること。
報告によれば、彼は王国の王都を出た後、ラドニア方面に向かったらしい。
しかし、そこから先の情報が途切れていた。
(姿を消した……意図的に? それとも……)
教会の諜報網を以てしても、彼の行方は掴めなかった。
それは、ただの少年の旅としては異常だった。
だからこそ、彼女は決意した。
(……ならば、私が直接会いに行く。確かめる。彼が、何者なのかを)
その日の夕暮れ、セリーヌは聖女セラフィーナのもとを訪れた。
彼女は変わらず、白銀の聖衣を纏い、静かに祈りを捧げていた。
だが、セリーヌの足音に気付くと、その指を止めて優しく微笑んだ。
「セリーヌ。……何か、動きが?」
「いいえ。ラザフォードは、あれ以来一切の動きを見せておりません。禁書庫も、監視を続けていますが、今のところは……静かです」
「……そう」
「ですが、レオン・アルテイルの所在が掴めなくなりました。王国を離れ、ラドニア方面に向かったのは確かですが、それ以降の足取りが、まったく……」
セリーヌは一歩進み、膝をついて言った。
「このままでは、後手に回ります。聖女様、私にラドニアへの赴任をお許しください。表向きは、対帝国動向の情報収集として」
セラフィーナは静かに目を伏せ、小さく溜息をついた。
「……貴女は、いつも一人で戦ってしまうのですね、セリーヌ」
「……それが、私の務めです」
「いいえ。今は、もう一人ではありません」
彼女の瞳が、確かな信頼と願いを込めてセリーヌを見つめた。
「レオン様に会ってください。そして、伝えて。……“私は、あなたの味方です”と」
「……はい。必ず」
立ち上がったセリーヌの背には、揺るぎない使命感が宿っていた。
密命を胸に、異端審問官は聖都を発ち、かつて誰も信じなかった“真実”へと足を踏み出していく。




