第132話 密命
高く白い石で築かれた尖塔が並び、正統神への祈りの声が絶え間なく響く“聖域”。
だがその地下深くに広がるのは、選ばれた者のみが踏み入ることを許された禁書庫──〈神の沈黙〉のさらに奥深く。そこに、ラザフォード枢機卿はいた。
静寂を破ることなく歩くその姿は、長衣を纏った典雅な聖職者のそれだったが、その瞳には、信仰ではなく明確な“意思”が宿っていた。
数日前──その“意思”に火を灯したのは、夜半、密かに現れた一人の影だった。
その男は、黒衣に身を包み、顔を隠す仮面の下から、しわがれた声で静かに語った。
「……〈冥主〉よりの密命です。ラザフォード枢機卿殿、禁書に手を伸ばし〈門〉の所在を突き止めよ、とのこと」
ラザフォードは眉一つ動かさず、その言葉を受け止めた。
「ベリアナ復活の鍵──〈門〉の手がかりを探れ、ということだな?」
密使は無言で頷き、懐から一枚の羊皮紙を取り出して差し出す。そこには、古の文書群の中でも“封印対象”とされたものの名が列記されていた。
「……容易なことではない。禁書庫の構造は複雑で、監視も厳重。準備には時間がかかる」
ラザフォードは低く囁くように言った。
「既に一部の台帳は操作した。だが、監視結界の迂回、閲覧履歴の抹消、守護者の排除──すべてを整えるには、手が足りぬ」
仮面の下から、わずかに笑みともつかぬ気配が漏れる。
「……では、必要な手をお貸しいたしましょう」
その言葉に、ラザフォードはわずかに頷いた。
「心得た。だが、これは神の沈黙に抗う行為だ。──必ず報いは求めるぞ」
密使の姿は、風のように闇に消えた。
密かに〈黒翼〉より届いた命令──「禁書に手を伸ばせ」
その意味するところは一つ。ベリアナ復活の鍵となる〈門〉の所在。
彼にとって、それはもはや当然の帰結だった。
(神は沈黙したままだ。だというのに、我らに“正しき道”を示し続けよと?)
忌まわしき偽善に満ちた枢機卿会議。
腐敗しきった上層部、見せかけの“清貧”と“慈愛”を掲げる司祭たち。
誰一人として、神の教義、真理を求めてはいなかった。
(ならば──私が、私こそが真実を掴む)
彼の動きは慎重に、だが確実に進められていた。
禁書庫の守護者である老修道士を、既に〈黒翼〉に通じた者とすり替えた。
蔵書台帳を改ざんし、閲覧記録を抹消。
さらに、監視結界の一部を意図的に“故障”させ、調査に名を借りて禁書庫に自由に出入りできるようにした。
ラザフォードは無言のまま、禁書庫の奥深くへと進んでいく。
棚に並ぶのは、あらゆる時代に伝えることを禁じられ、歴史から抹消されたはずの書物たち。血の儀式、堕神信仰、古代契約、神の敵とされた者たちの記録。
蝋燭の揺らめく灯りのもと、彼は一冊、また一冊と引き抜き、精査していく。
(〈門〉の場所……いずれベリアナの聖域とされし地。その鍵となる記述がどこかにあるはず、いや、なくてはならんのだ)
だが、捲れど捲れど──肝心の“鍵”に繋がる記述は見当たらなかった。
ページを繰る手が、僅かに荒くなる。革表紙の角を潰し、束ねられた羊皮紙を乱暴に押し広げるようになっていた。
彼の目は鋭い鷹のように、文字の断片を貪欲に追っていたが、その瞳の奥には、次第に苛立ちの色が滲みはじめていた。
(くだらん……破滅思想や異端儀式の繰り返しばかり。そんなものはもう腐るほど読んだ。求めているのは“場所”だ。座標、地名、象徴、何でもいい……)
喉の奥が乾き、口中に苦味が広がる。
ラザフォードは一度、ゆっくりと息を吐いた。だが、胸中に渦巻く焦燥までは、吐き出せなかった。
静寂の中、捲られる紙の音だけが、苛立ちに満ちた彼の感情を物語っていた。
彼の目は鋭い鷹のように、文字の断片を貪欲に追う。
数十冊目。黒い革装に銀の鍵が描かれた重い書物──『黒陽の記』。それは確かに、ベリアナの信徒たちが書き残した禁書だった。
(これは……これか!!)
心臓が脈打つ。指先が震える。
次の瞬間、彼の視線が、ついにその名が記されている一節に辿り着く。
『神は堕ちた。ベリアナ、その名を刻むものなり。正統神はその存在を封じ、記録を刈り取り、名を覆い隠した。されど、あれは……』
──そこまでだった。
ラザフォードの目が見開かれる。
そこで文章が途切れていた。
その先のページは、まるで無惨に破り取られたように消えていた。あるいは、最初から白紙だったのか。だが、そこに“核心”があったことだけは確かだった。
手を滑らせれば崩れそうなほど劣化したページ。そこに記されていたであろう“核心”が、彼の目前からこぼれ落ちていた。
言葉にならない音が喉の奥で詰まり、彼の胸中に込み上げたのは、燃え上がるような焦燥と怒りだった。
乾いたページが、ぱさ、と風に揺れた。
「……」
ラザフォードは静かにページを閉じた。
だがその動作とは裏腹に、内側から噴き出す感情は抑えきれず、全身にわずかな震えとなって現れていた。
(肝心なところがない……“なぜ神はベリアナを封じたのか”。〈門〉と“器”の関係も記されていない……)
せっかく辿り着いた“真実”の直前で断ち切られた。
その落差が、理性の奥に隠していた激情を呼び起こす。
顔を上げた彼の表情には、もはや聖職者の穏やかさなど微塵も残っていなかった。
口元がわずかに歪み、低く呟く。
「愚かなる者どもめ。真理に恐れを抱き、記録を焼き捨てるとは……それが“神に選ばれし者”の所業か」
床に転がった古書を踏みつけるように、彼は一歩、前へ踏み出す。
蝋燭の炎が揺らぎ、背後に伸びる影が、まるで黒い翼のように広がった。
(やはり〈門〉は偶然に開かれるものではない。何かが鍵になっている……。だが、それが何かは、ここにも記されていない。いや、記されたものが明らかに消されている)
額を押さえる。眉間に刻まれた皺は、焦燥と怒気の証。
「ベリアナ……“真の神”と呼ばれし存在よ。その意志すらも我らは読み取れぬ。これでは、ただの闇だ」
ふっと気配がしたかと思うと、背後に黒衣の者が現れ、静かに頭を下げた。
「〈冥主〉より伝言を。枢機卿猊下におかれては、聖教国内の他の禁書、あるいは神殿遺構の再調査にも従事するよう──とのことです」
ラザフォードは深く息を吐いた。
「ふん……わかっておるわ。〈冥主〉も相当苛立っているとみえる。だが、言われなくとも調べるわ」
その口調は、諦めではなく、次なる計画への執念を含んでいた。
ラザフォードは再び足を踏み出し、さらなる禁書の山へと手を伸ばした。
静寂なる〈神の沈黙〉の中で、彼の手はなおも止まらない。
知識を貪り、神すら侵してなお進もうとするその姿は──既に、ただの聖職者ではなかった。




