第131話 敗北
〈黒翼〉の本拠地であり、冥き力の胎動する地、黒き楼閣〈アスフォデル〉
空気そのものが意志を持つかのように蠢き、光は存在を拒絶される。
影の大広間に響いたのは、術式転送の反響と、膝をついた一人の影──イーリスだった。
“自己消滅”の術式。肉体と魂を〈黒翼〉の領域へと戻す脱出法。肉体と魂を分解し、次元を超えて〈黒翼〉の拠点へと転送する禁呪。
イーリスの身体がゆらりと傾き、膝をつく。血が滴り、全身の筋肉が軋みを上げていた。
戦いの終盤、レオンの奥義が彼女の肉体を深く裂き、【原初の力】が内側から肉体を破壊していた。
もはや動ける状態ではない。瀕死といっても過言ではない。
だが──
「……私は……終わらない」
全身が焼けただれ、魔力の芯すら揺らぐその姿に、居並ぶ幹部たちが動揺する。
「……イーリスが、あの女が……この姿で戻るとは……!」
「何があったというのだ?」
「 “影の使徒”の中でも、彼女は最上位の一人……まさか、あの少年に……」
「信じられん、イーリスをも……?」
「奴は何者なのだ……なぜスキルを持たぬ者がここまで……」
動揺の声が交錯する中、イーリスの身体がさらに傾いた。もはや手をつくことすらできず、そのまま崩れ落ちるように倒れ込む。
「……急いで治療班を呼べ!」
「いや、こんな状態では転送負荷が大きすぎる。すぐに治療所へ運べ!」
数名の影が即座に動き、イーリスを慎重に抱え上げる。だが、その身体からは絶えず黒煙のような瘴気が漏れ、魔力の暴走と【原初の力】の逆流が、治癒を拒むかのように彼女の肉体を蝕み続けていた。
「これは……魔力が、まともに安定していない……」
「ただの治療では追いつかん。封印術との併用が必要だ……!」
次元を越える禁呪の代償、レオンによる深手、そして【原初の力】の浸透。
幾重にも重なった損傷は、最上位の“影の使徒”すら容易くは癒せぬ深淵だった。
だが、それでもなお、イーリスの瞳は閉じられていなかった。血の滲む唇が、微かに動く。
「……次は……必ず……」
その呟きは、狂気か執念か。
冥き楼閣に、重く沈む気配だけが残った。
ざわめきが広がる影の大広間。幹部たちが動揺と困惑を隠せぬ中、ただ一人、冷たい眼差しを保ち続ける者がいた。
黒羽ノ令嬢──〈冥主〉の側近にして、〈黒翼〉の全作戦を統括する影の管理者。
その瞳には、激情も驚愕もなかった。ただ、鋭く冷たい計算と観察だけが宿っていた。
(“影の使徒”までもがこの状態……レオン、貴様一体何者なのだ……)
怒りではない。困惑でもない。
それは──理不尽にして論理を逸脱した存在への、苛立ちに近い疑問だった。
(……あの無能が。“持たざる者”がどうやって……? かつて追放され、蔑まれていた少年が、一体何を経験し、何を手に入れた? 何をしたら……“イーリス”をここまで追い詰められる?)
思考の渦の中、背後で控えていた黒衣の部下が、躊躇いがちに口を開いた。
「……別の者を手配いたしますか?」
黒羽ノ令嬢は、視線をゆるやかに部下に向け、即座に首を横に振った。
「それは〈冥主〉の指示を得てからのことだ。軽々しく“使徒”の枠を動かせば、秩序が崩れる」
その声は凍てつくように静かだった。
(イーリス以上──現時点では厳しいか。残存戦力の中に、彼女に匹敵する者はいても、それ以上は……)
幹部たちのざわめきが再び遠く感じられる。
黒羽ノ令嬢は静かに思考を巡らせていた。
次の手を打つべきか。あるいは、既に何手も遅れているのか。
──いずれにせよ、〈冥主〉へ報告を
彼女は無言で立ち上がると、〈冥主〉の玉座の方へ歩み出た。
大いなる闇の座に鎮座する存在──〈冥主〉
その姿は影と霧に包まれ、見る者に確かな像を与えぬ。だが、声は絶対の威を帯びて響く。
「──報告を」
「はい。 “影の使徒”〈夜哭きのイーリス〉は、標的レオンとの交戦において重傷を負い、 “自己消滅”の術式を用いて帰還。レオン排除の任務は失敗に終わりました」
一瞬の沈黙が、空間そのものを圧迫するように重くなった。
幹部たちが顔を強張らせる中、〈冥主〉の声が再び響く。
「……ならば、他の “影の使徒”を用意せよ」
まるで抑揚のない声だった。代わりはいる、とでも言いたげな。
「御意に」
黒羽ノ令嬢が深々と頭を垂れると、〈冥主〉は続けた。
「──〈門〉の再調査はどうなっている」
今度は苛立ちが混じっていた。声が落ちる度、周囲の空気が震える。
黒羽ノ令嬢が口を開くより早く、〈冥主〉の周囲に渦巻く魔力が黒きうねりとなって噴き上がる。空間そのものが軋むような圧。
幹部たちの中には思わず身を引きかける者もいた。恐怖を隠しきれぬまま、影の奥にひそかにたじろぐ。
「我らの目的を忘れるな。〈門〉を開き、〈ベリアナ〉を復活させる。この世を作り変えるのだ」
「報告では、依然として進展はなく、〈門〉に該当すると思われる遺跡群は、いずれも封印が強固です。開門の兆しは確認されておりません」
報告を終えた黒羽ノ令嬢の声にも、微かな緊張が滲んでいた。
「ふむ。ならば……聖教国に潜伏中のラザフォードに命じよ。聖教国の“禁書”に手を伸ばせ。正統神により封印された知識──その中に、我が神〈ベリアナ〉復活の糸口があるやもしれぬ」
「は。ラザフォード枢機卿には直ちに密命を伝達いたします」
黒羽ノ令嬢が再び頭を垂れた、その時。
「……だが、ラザフォードだけでは足らん」
低く、冷え切った声。〈冥主〉の漆黒の視線が、空間の一点を刺し貫いた。
「別の諜報員も送り込め。名を持たぬ者で構わぬ。奴には奴の役割を果たさせよ。だが、それと同時に保険は必要だ」
その一言に、黒羽ノ令嬢の胸中に一抹のざわめきが生じた。
(……二重の諜報。確かに合理的ではあるけれど……それだけ危険も増える──)
口には出さなかった。出せるはずがない。
重く、静かに進む影の計画。
イーリスの敗北は、確かに〈黒翼〉に動揺を与えた。
だが、それだけでは終わらない。
暗黒は、新たな牙を研ぎ直す。
標的は──レオン。
そして、禁断の知識、禁書が眠る、聖教国の心臓部。
次なる一手が、闇の中で蠢き始めていた──。




