第129話 撤退
(単なる剣技だけでは少々きついな……仕方ない、使うか)
「レティシア、少しだけ時間を稼いでくれ……」
「了解。〈風障壁〉」
レティシアが詠唱し、周囲の空間が半透明の風で満たされる。
視界が歪み、イーリスの動きにわずかな遅延が生まれた。
「隙間に入れ込む気ね。でも──それだけじゃ、私を止められないわ」
イーリスは空間ごと斬り裂く勢いで突撃する。
だがその刹那、レオンは刀を逆手に持ち替え、静かに構えた。
「やれやれ……あまり力を出すなと忠告されたばかりなんだがな」
その身を中心に、目に見えぬ“圧”が空間を満たしていく。
空気が揺れた。水路の湿気が震え、周囲の灯が明滅する。
「……あれは……」
レティシアが呟いた。
〈原初の力〉──かつて遺跡での修行の果てに到達した、世界の法則を超えた存在との繋がり。
神すらも干渉できぬ根源の領域から引き出す、唯一無二の力。
空間が軋み、水が逆巻き、闇が引き裂かれていく。
「〈原初解放──“始まりの刃”〉」
その言葉とともに、レオンの全身に光の輪が走る。
〈原初の力〉で満たされた身体が、見る間に研ぎ澄まされていく。
同時に力の奔流が剣に注ぎ込まれ、淡く蒼い光を放ち始めた。
「それは……なんて綺麗な……」
イーリスが無意識に呟く。
だが、次の瞬間──全身を貫くような緊張が彼女を襲った。
それは、直感だった。理屈ではなく、身体の奥底から沸き上がる本能。
──危険だ。あれは“この世”のものではない。
──何かする前に殺さねば。
「っ……!」
イーリスは咄嗟に踏み込み、連撃を仕掛けた。
だが、レオンの剣はそのいずれもを正確に弾き返す。
軌道を読み切るどころではない。既に未来を見透かしているかのような反応だった。
一撃ごとに彼女の腕に衝撃が走り、足元が揺らぐ。
「なっ……動きが、まるで別人……!」
押していたはずだった。優勢だったはずだった。
だというのに、今や彼女が守勢に回っている。
その事実に、イーリスの瞳に初めて焦燥が灯る。
(こんなはずじゃない……!)
だが、同時に。
その胸の奥底から、沸き立つ何かがあった。
(けれど……面白いじゃない、レオン)
彼の剣を受け、彼の気迫に晒されながら、恐怖と並んで熱が宿る。
自分が知らぬ領域を、彼は超えている──そのことが、たまらなく嬉しかった。
「動きが変わったわね。それがあなたの“力”なのかしら?」
けれど彼女の声には、震えと共に、甘い陶酔が混じっていた。
まるで美酒を味わうかのように。
「まだ……終わりじゃないわよね?」
「いいや、もうさっさと終わらせるぞ」
レオンはもう一度、剣を構え直す。
風が鳴った。地が震えた。空間の重力がひと際強くなる。
そして──互いの刃が、再びぶつかり合った。
レオンの構えに、空気が震えた。
だが──イーリスはそのままでは終わらなかった。
「ふふ……いいじゃない、レオン」
瞳に宿る光が、狂気と歓喜に染まる。
その身に纏う気配が、瞬間的に跳ね上がった。
魔力ではない。
殺意でもない。
それは──戦場にのみ咲く、美しき“凶刃の覚醒”。
「もっと速く……もっと深く……」
呟いた瞬間、イーリスの輪郭が一瞬ブレた。
次の瞬間、斬撃が奔った。
空間を裂く音と共に、数十の影のような刃が連続してレオンを襲う。
それはもはや“剣技”の域を超えていた。
一撃ごとの重さと鋭さが跳ね上がり、空気を裂き、地を穿つ。
──速い。
──重い。
──止まらない。
「さらに力をあげたのか……だが、無駄だ」
レオンの周囲が、再び軋んだ。
空間が、収縮する。
「〈原初・空間圧縮〉──」
イーリスの斬撃が到達する寸前──
レオンの身を中心に、空間が小さく、硬く、封じられたように凝縮される。
次の瞬間。
──バギンッ!!
イーリスの斬撃が弾かれた。
まるで硬質な球面に刃を当てたかのように、力を失い、逸れる。
同時に、彼女の姿が視界に収まるより早く、レオンが踏み込んだ。
「──〈加速〉〈引き寄せ〉」
時空の軌道が捻れ、足場が爆ぜた。
雷鳴のような衝撃とともに、レオンがイーリスの懐へ。イーリスはレオンに引き寄せられる。
二人の距離が一瞬で縮む。瞬間移動のように。
その一撃は、ただの斬撃ではなかった。
加速された“質量”が、まるで砲弾のようにイーリスの腹部をとらえる。
「はぁぁあああ!!」
「っ……がッ……!!」
彼女の身体が宙を舞い、水路の壁へと叩きつけられる。
石が砕け、水飛沫が上がる。
──それでも、イーリスは立ち上がった。
唇が裂け、血を流しながらも、
その双眸には、まるで恋をしたかのような熱が宿っていた。
「……こんな……力、隠してたのね」
彼女は息を切らしながらも笑った。
満身創痍のはずなのに、その笑みに後悔も怯えもない。
「いいわ、もっと……もっとちょうだい。あなたのすべてを……!」
「引くつもりはない、か……なら、遠慮はしないぞ」
二人の間の空間が、再び圧縮され、歪む。
蒼と紅、相反する光を纏った剣士たちが、ぶつかり合う。
激しく、
速く、
果てしなく──
一歩も引かぬ攻防が続く。
雷のように響く打撃音、風を裂く斬撃、衝突する気流。
水路の構造が軋み、壁が崩れ、天井から石が落ちる。
だが、二人はそれすら意に介さない。
そこにあるのは、純粋な“力”と“技”の応酬。
殺し合いでありながら、どこか儀式のように美しい。
まるで──互いの魂を試し合うように。
再びレオンは〈原初の力〉を剣に融合させる。
「〈奥義・原初連閃:終影・裂天穿〉!」
放たれたのは、音速を超えた多重の斬撃。
それぞれが〈原初の力〉を帯び、時間と空間すら断ち切る精度で放たれる。
一閃──時を切り裂く。
二閃──空間を裂く。
三閃──因果を断つ。
そのすべてが“未来に起きる行動すら”先読みしていた。
イーリスの超人的な回避能力すら通じない。そこに選択肢はなかった。
「ッ──がはっ……!」
三手目の斬撃が、イーリスの左脇腹を深く切り裂いた。
その身体が弾かれるように吹き飛び、石壁に叩きつけられる。
──沈黙。
そして、残響の果て。壁に崩れ落ちる細身の影。
崩れ落ちたイーリスが、血を吐きながらも薄く笑った。
「……ああ……素敵。これで、私を殺してくれたなら……どれほど幸せだったか」
敗北を悔いず、むしろその一撃に歓喜するような声。
レオンは黙って剣を構え直す。
だが、直後──
「……もういいわ。今日は、ここまで。けれど──これは終わりじゃない。……また来るわ。何度でも、何度でも……ね……」
その言葉は、敗北の予感に怯えるどころか、次なる機会を夢見る子供のような声音だった。イーリスは、うっすらと笑みを浮かべたまま、静かに目を閉じた。
彼女の身体が黒い靄に包まれ、瞬く間に崩れていく。
“自己消滅”の術式。肉体と魂を〈黒翼〉の領域へと戻す脱出法。
「──逃がした、か」
「完全な撤退術ね。でも、痕跡は残った。これは貴重よ……」
レティシアが床に残る魔痕を調べる。そこには、禍々しい紋章が刻まれていた。
──〈黒翼〉そして、〈冥主〉の文字。
「……やっぱり来たな、〈黒翼〉の本隊が……」
〈原初の力〉の残滓がまだ揺らぐ空間の中、二人は知っていた。
これはまだ、序章に過ぎない──と。




