第128話 地下水路
場所は旧市街の地下水路跡。
今は使われておらず、人目にもつかず、音も吸われるように消える空間。
しかも、複雑な構造が尾行者の感覚を惑わせる。
「こっちが餌になる。囮は俺だ。レティシアは潜んで、不意を突いてくれ」
「わかった。卑怯上等ね。でも油断はしないで。相手は“その道の最高峰”かもしれないし」
罠はごく単純なものだった。
レオンがわざと“気配を残す”形で水路跡に入る──
獲物の背中を捉えたいという欲求を逆手にとる、敢えての“無防備”という名の挑発。
その夜──イーリスは、確信をもって地下へと足を踏み入れた。
微かに漂う気配、そして濃くなっていく“殺しの匂い”。
(見つけた……ようやく)
彼女は声に出さない喜びを噛みしめながら、獲物を仕留める刃を手にする。
だが、その瞬間だった。
カッ──
地下水路の隅、レオンの影が音もなく立ち上がった。
「──遅かったな。ずいぶん時間がかかったじゃないか。待ちくたびれたぞ」
その瞬間、レティシアの結界術が発動する。
周囲の通路が“閉ざされ”、音と気配のすべてが隔離された。
密閉空間での一対二。逃げ場はない。
だがイーリスの瞳には、恐怖どころか喜悦の炎が宿っていた。
「ようやく……ようやく“その時”が来たのね」
刃が抜かれ、音なく空を裂く。
血のように赤く染めた鋼──それが、〈夜哭きのイーリス〉の牙だった。
「殺してあげるわ。最高の時間を、ありがとう」
そして、静かなる死の舞台が幕を開ける。
地下水路──。
かつて都市を支えたその構造体は、今では忘れられた迷宮と化している。
湿った空気に苔の匂いが漂い、水音は低く響くのみ。
ここに、三人の影が交錯していた。
◆
「──始めましょうか」
先に動いたのは、〈夜哭きのイーリス〉だった。
その動きは音もなく、空気の層すら裂くような鋭さでレオンに肉薄する。
彼女の武器は細身の二本の短剣。風より速く、毒より静かに、そして死よりも確実に──。
一閃、二閃、三閃。まるで舞のような動作の中に、致命の殺意が込められていた。
「ッ──!」
レオンは反射的に剣を抜き、目にも止まらぬ連撃をいなす。
だが──鋭く振り抜かれた短剣が、わずかに剣先を逸らし、レオンの太腿をかすめた。
「くっ──!」
浅い傷だ。だが、鋭利な切れ味が皮膚を容易く裂き、鮮血がしぶく。
次の瞬間には、もう一撃が背後から──地を蹴ったイーリスの体勢に間に合わず、レオンは片腕で強引に防ぐ。
短剣の刃が外套を裂き、肌を切る。切先が筋肉を浅く抉った。
痛みと共に理解する。
──この女、あらゆる動きを“殺すため”だけに最適化している。
「……これが〈黒翼〉……“技術”じゃない、これは……“殺し”そのものか……」
身体をひねって斬撃を受け流すも、肩を掠める一閃。血が滲む。
「今の動き、完全に俺の“反応速度”を読んでいたのか……!」
イーリスは嗤うように言った。
「あなたの回避癖、既に読み終えたわ。次は、動脈よ」
その声と同時に、背後に回り込むような奇襲。
──読んでいたはずの動きが、追いつかない。
背中をかすめる風。
踏み込んだ瞬間、足首に鈍い衝撃。すぐさまイーリスの短剣が、首元に迫る。
「く──っ!」
後ろ手に剣を回し、刃と刃が擦れる音が響く。
だが、受け止めたはずの衝撃が腕を痺れさせる。感覚が鈍る。
左肩を小さく切り裂かれ、赤い筋が一筋、衣を染めた。
焦りが募る。動きの“先”を読んでなお、喰らう隙がある。
このままでは、数手も持たない。
だが、次の瞬間──横から鋭い風の奔流が吹き抜けた。
レティシアの精霊魔法〈風刃〉。無詠唱に近い発動速度で、イーリスの側頭を狙う。
「おっと……貴女、支援型かと思ったけど、意外と刺してくるのね」
ひらりと背を逸らし、イーリスは天井に張り付くように跳躍する。その動きは人間離れしていた。まるで蜘蛛のように、壁面を利用して新たな死角からレオンを狙う。
「……何あれ? まるで虫じゃん……気持ち悪っ」
「来るぞ!」
レオンが叫んだ瞬間、イーリスの姿が一瞬かき消えた。
「〈死斬〉」
──身体の“存在感”を極限まで削ぎ落とし、殺気すらも消す〈黒翼〉式の暗殺術。
背後から、肌に触れるほどの気配が迫る。
「──っ!」
ギリギリでレオンは剣を抜き、後ろへと振り払う。
金属音とともに短剣が弾かれ、イーリスの顔に初めて微かな驚きが浮かんだ。
「ふふ……あら? これで“見えて”るの?」
「……見えてはいない。でも、“感じた”だけだ。殺意の軌跡を……な」
次の瞬間、イーリスの短剣がレオンの脇腹を浅く裂いた。
「ッく……!」
切っ先を弾いたつもりだった。だが、ほんのわずかに力の流れを変えられていたのだ。
皮膚を裂かれた感覚。熱い痛みが走る。呼吸が一瞬、途切れた。
(まずい……あれは“殺すこと”だけに最適化された動きだ。俺の読みが遅れれば、すぐにでも心臓を突かれる)
レオンは跳び下がる。だが、背後の足場にもうイーリスがいた。
「逃げた先で、死ぬのもいいわね……ふふ」
斜め上からの斬撃。間一髪、剣で受けるも、衝撃で指がしびれた。剣の鍔から震えが腕に走る。
(このままじゃ、消耗戦になる。持久戦では分が悪い……!)
細剣の一閃がレオンの右腕をかすめた。反射的に飛び退くが、わずかな刹那の遅れが命取りになりかねない。
「ッ……!」
レオンは息を呑む。防いだはずの軌道が、わずかにずれて喉元へと迫っていた。
最初から“回避を計算して”軌道を操作している一撃。彼女の戦いは理詰めだ。しかも、殺意に満ちていながら、激情に呑まれた気配は一切ない。
(感情がない……いや、違う。理性と狂気が、奇妙な均衡で並び立っている……)
レオンの思考を読み取ったかのように、イーリスが口元だけで笑った。
「楽しいわ……生きている実感がする。これだから“死”を踊るのはやめられない……」
その瞳は、炎のように揺れていた。激情ではない。歓喜とも違う。
まるで、骨の髄まで戦いに耽溺する者の“渇き”──理性が、破滅と紙一重の狂気を封じ込めている。
剣戟が交錯する中、レオンの肩にまた浅い切り傷が走る。
皮膚の下を刃が舐めたような感覚。衣服が裂け、赤が滲む。
既にかなりの数の浅い傷を負っていた。深くはない──だが、正確だ。どれも、次は致命に届く“確認の刃”。
(小さな傷を刻むことで、動きを封じようとしている……!)
その意図に気付いた瞬間、さらに恐ろしさが迫る。
それは計算された“殺し”の美学──急所を避けるのは、技量を測るための猶予。
そのうち、“次”が来る。本当に心臓を穿つ一撃が。
イーリスが呟く。
「踊って。もっと。まだ足りない……あなたの本気を、もっと、もっと引きずり出して……」
その声音には、甘さすらあった。恋人の囁きにも似た、倒錯した情熱。
しかしそこにあるのは恋ではない。
“死”に恋する者の──歪な悦び。




