第127話 〈夜哭きのイーリス〉
“影の使徒”〈夜哭きのイーリス〉──彼女は何度目かの報告書を手にした瞬間、鋭い音を立ててそれを引き裂いた。
「また、“所在不明”か……くだらない」
イーリスの声は完全に冷え切っていた。だがその中には、抑えきれない苛立ちが渦を巻いていた。
標的──レオン。
名前はどうでもいい。ただの“殺すべき対象”に過ぎないのだから。
それがまだ生きている。まだ息をして、この世界に立っている。
その事実が、彼女の精神を鋭利に蝕んでいた。
「どうして、まだ生きているの……?」
彼女にとって、生きるということは「殺す」ことと同義だった。命を奪うことでしか、自らの存在を実感できない。
生まれ落ちた時から、“影”として育てられ、感情を捨て、殺すためだけに訓練された。そんな彼女にとって、“標的を殺せない”状況など、とてもではないが耐えられない。
「〈冥主〉の命令など、もはやどうでもいいわ……」
吐き捨てるように呟いた。
待つのは終わりだ。報告を受けるのも、命令を仰ぐのも、もううんざりだった。
「私が行く。必ず見つけ出して、喉を裂いて……静かに、死を与える」
黒き外套を翻し、彼女は音もなくその場を後にした。影が溶け、空間が歪む。
◆
イーリスがその街に足を踏み入れたのは、夕暮れの時間帯だった。
街はいつも通りの賑わいを見せ、商人たちが声を張り上げ、旅人や盗賊たちが混ざり合う雑多な空気が充満している。だが、彼女の目に映るのは、ただ一点、標的のみ。
(感じる……何か、微かに残滓がある)
彼女は通りを歩く男や女、荷車の車輪の軋む音、遠くの鐘の響きすらも意識の外に追いやり、目に見えぬ“気配”を探し始めた。暗殺者にしか感知できぬ殺気、そして“影のゆらぎ”。殺しに魅入られた者だけが持つ、獣にも似た嗅覚。
「隠れても無駄よ。どれだけ巧妙に姿を隠しても……殺す者は、見つけ出す」
月が昇り、夜の帳がラドニアを覆い、灯りがともり始める頃、イーリスは既に動き出していた。
市場、酒場、神殿、裏通り、情報屋のアジト、宿──すべてを、気配で探る。
どこかに、必ずいる。その首を、この手で落とすまでは──彼女の夜は終わらない。
ラドニアの夜は賑わいと混沌に満ちていた。だが、イーリスの足音は決してその雑音の中に溶けなかった。なぜなら、彼女の歩みは音そのものを拒絶する“術”であり、存在そのものを拒む“殺意”だったからだ。
イーリスはまず、〈裏市〉に向かった。金と情報が交錯する地下市場。ここには、目に見えぬ者たちの痕跡が濃く残る。とくに“身元不明”の者が現れれば、そこには必ず「記録なき取引」がある。
(この街に、いる)
確信が走る。だが、獲物は地下に潜っている。表の足取りは見えない。そこでイーリスは街の〈灯〉ではなく、〈影〉の中に目を向け始める。
ラドニアの神殿跡地。かつて聖教国の布教施設であった廃墟に、イーリスは夜中独りで足を踏み入れる。風の通り抜ける音、煤けた壁、崩れた祭壇。そのすべてが、ただの瓦礫に見える。
だが──
(……足跡)
埃の中に、わずかに崩された部分がある。最近、人が立ち入った痕跡。
しかも、重さが偏っていない。武人か、それとも鍛えられた女の動きか。
イーリスは一瞬、目を閉じて呼吸を整える。
空気の流れ、魔力の残滓、そして感覚に残る“違和感”を一つ一つ拾い上げていく。
その夜、彼女は七つの宿と六つの地下通路を調べ上げた。
無人の空間、人気のない小部屋、物音一つしない空き家──
その夜から、イーリスは街の空気そのものを変え始める。
気配を読める者なら、肌を撫でる“殺意”の風を感じるはずだった。
一方、レオンとレティシアもまた、それに気付いている。
無言の圧力。見えない誰かが、自分たちの後ろに常にいるような感覚。
イーリスの刃はまだ抜かれていない。
だが、彼女の狩りは既に始まっていた。
──“次に動いた瞬間、斬る”。
そう語るように、イーリスは標的の呼吸を、歩幅を、動きの癖さえも“読み込んで”いく。
「逃がさない。私が、貴方を殺す」
それは命令ではなく、呪いのような誓いだった。
やがて、影はレオンの背中に手をかけようとしていた。
◆
静かな夜だった。
だがその静けさは、嵐の前のそれだった。
ラドニアの外れ、廃屋となった旧防衛塔にて、レオンは窓越しに街を見下ろしていた。遠くに灯る街灯。だがそれらの輝きとは裏腹に、見えない「何か」が迫ってきているのを、彼は確かに感じていた。
「……来ているな」
低く呟いたその言葉に、背後からレティシアの声が応える。
「うん。昨日あたりから、風の流れが変わったね。無意識に人が通らなくなっている区域がある」
「俺も……寝ている時、誰かに覗かれているような感覚があった。動きはないが、気配だけが確実に近づいてきてる」
認識阻害の魔道具があるとはいえ、それはあくまで“人の目”を欺くもの。気配までは完全には覆えない。
そしてその殺意は、冷たい霧のように、確かに空気を染めていた。
「恐らく、〈黒翼〉の……暗殺者だな。普通の刺客じゃない。これは、まるで“獣”だ」
レオンの言葉に、レティシアがわずかに眉を寄せる。
「どうする? 逃げるなら、今のうちだよ? まだ相手の気配の位置は遠いから、別の街に潜れば追跡は振り切れる可能性もあるけど?」
「いや──ここで仕留める。むしろ好機だ」
レオンの声には、覚悟があった。
「向こうはまだ、こちらの動きを完全には読み切っていない。気配の探知に徹しているなら、逆にその“感覚”を利用できる。誘導してやろう。狩る側が、狩られる側になるってやつだ」
そうして二人は、罠を張るための舞台を整え始めた。




