第126話 敵の気配
一方、そのレオンは──確かにラドニアにいた。
街の喧騒に紛れ、市場の片隅で、あるいは下町の酒場の陰で、レオンは静かに動いていた。
隣にいるのは、リューシャからの信頼を受けた精霊使い、レティシア。
彼女と共に、レオンは聖教国の内情と動向を探っていた。今や表からは見えぬ真実を暴くために。
しかし、レオンとレティシアの姿はラドニアにはなかった。
本来の彼の姿が誰の目にも映らない理由──それは、リューシャが与えた認識阻害の魔道具によるもの。それは、認識を歪め、見る者の意識を変化させるという精緻な魔術道具。例えすれ違っても、直接対面しても、よほどのことがない限り、人はその本来の姿を認識できない。
この街には、聖教国の目も、帝国の探りも、そして──〈黒翼〉の気配すらある。
だが、その風の中に紛れることこそ、彼らが今持つ最大の武器だった。
レオンとレティシアの当座の目的はただ一つ──聖教国の内情を暴くこと。
教皇や聖女、枢機卿たちの言葉の裏に隠された真実、そして“神の名のもとに”行われる非道の実態を暴き出すために。そして潜伏生活の中で徐々に聖教国の内情を掴みつつあった。
情報屋との接触は複数回に及び、表では流れない情報──枢機卿会議の裏話、神殿警備の再編、中央諜報局の人員移動。さらには聖教国が密かに育成している特殊戦力の動向までもが、断片的ながら浮かび上がってきていた。
レオンたちは、密かに複数の情報屋と接触を重ねていた。金だけではなく、「確実な安全」と「真実への導き」を対価として提示することで、かつて聖教国に仕え、今は裏社会に身を置く者たちから口を開かせていたのだ。
その夜もまた、情報屋との接触が予定されていた。
指定された路地裏の酒場。その奥まった一室に、レオンとレティシアは先に潜み、情報屋を待つ。現れたのは、元・聖教国密偵。今は情報仲介や裏取引を請け負う、所謂“堕ちた者”だった。
しかし、その顔にはいつもと違う影が差していた。
「……最近、この街に、妙な連中が入り込んでいやがるな」
声を潜めながらも、男の語気には緊張が混じる。
「数は分からん。だが、一、二の徒党じゃねぇ。魔力の質が違うんだ。見えねぇようにしてやがるが……あれは、ただの盗賊や密売人じゃねぇな」
「聖教国か?」
レオンが即座に問い返す。
「……じゃねぇと思うぜ」
男はわずかに首を振る。
「なんていうかよ、闇に染まりすぎてるんだ。まるで“何か”を纏ってやがるような……。もしかしたら帝国の影部隊か、あるいは──〈黒翼〉て可能性もある」
言葉の最後には、確かな恐れが滲んでいた。
「……しかも、入り込んでた奴らの中に、何人か……“消えた”のがいる。聖教国の異端狩りの手にかかったって噂だ。正規の動きじゃねぇ、動いてるのは──“地下の浄化師”どもかもしれねぇな」
「異端狩りが、ラドニアで?」
レティシアが低く問い返す。男は肩をすくめるように笑う。
「なりふり構わず動いてるってこった。連中にとっちゃ、敵も味方も関係ねぇからよ。見つけたら“処理”するだけだ」
緊迫した沈黙が流れる。
レオンは目を伏せ、思案するように額に手をやった。
(〈黒翼〉が動いてる可能性……いや、それ以上に、聖教国はまだまだ裏で嗅ぎ回っているとはな。懲りない連中だ)
情報屋が去ったあと、レオンとレティシアは人目を避けた潜伏先の宿へと戻った。灯りは最低限。結界による気配遮断が施されている。
「……さて、どうする?」
レティシアが静かに問いかける。
その口調はいつも通り柔らかく軽やかだが、声には真剣な鋭さがあった。
レオンは窓辺に立ち、夜の市場を見下ろす。遠くから聞こえる喧騒の背後に、確かに見えない何かが忍び寄っているのを感じていた。
「奴らが、俺を狙ってきているのなら──」
「罠を張って、逆に釣り出す……って考えてる顔してる」
レティシアが言葉を挟み、微かに笑う。レオンは否定も肯定もせず、指を顎に当てたまま思案を巡らせる。
「確証はまだないけどな。そもそも、奴らの標的が俺たちかどうかも不明だ」
「けど、こんなタイミングでそういう連中が集まってくるなんて、偶然にしては出来すぎてない?」
レオンは頷いた。
「考えられるのは三つだ。
一つ、聖教国の諜報部隊──暗殺者の可能性もある。
二つ、〈黒翼〉の刺客。連中が再び動き出したのなら、無差別な潜入もありうる。
三つ、まったく別の第三勢力──帝国の影部隊、あるいは闇商会の一派……」
「四つ目もあるよ?」
レティシアが唇の端を上げる。
「全部、同時に動いてる可能性とかね」
その言葉に、レオンの眉がわずかに動いた。
「……混乱の中で本命が紛れ込む、か。うん、やり口としては悪くないな」
「及第点あげちゃう?」
「いや、俺たちに迷惑をかける分、保留だな。いや、いっそ落第にするか」
レオンは笑って椅子に深く座り直し、指を組む。
「待ち構えるか、それとも姿を完全に消すか──」
「レオンが囮になれば、いずれ本命が動くよね。でもそれって危険すぎない?」
「だが、動かなければ、こちらも情報を得られないだろう?」
緊迫した沈黙の中、レオンは目を開き、決意を口にした。
「……奴らの動きが本格化する前に、逆にこちらが選ぶ。潜伏と索敵を同時に進めよう。レティシア、周囲の魔力感知と精霊探査は任せる」
「了解。影の気配も、精霊たちの声も拾ってみる」
その瞬間から、二人は動き始めた。
影の中に潜み、気配を殺し、次なる獲物の息遣いを探る猟犬のように。
ラドニアの街を包む静かな闇。その奥で、狩る者と狩られる者が、まだ互いを知らぬまますれ違おうとしていた。
果たして、誰が獣で、誰が罠を張る猟師なのか──
その答えが明らかになるのは、もう少しだけ、後のことだった。




