第120話 衝撃
重く閉ざされた石造りの会議室。厳粛な空気が、蠟燭の炎すら揺らすことなく張り詰めていた。扉が開き、使徒服に血の染みた従者が膝をつく。
「……戻りました。〈神の右腕〉の任を受けた部隊、六名のうち四名が戦闘不能。残る二名は、右腕を斬り落とされ、帰還いたしました」
室内が静まり返る。
その報せが意味するものを、誰もが理解していた。
〈神の右腕〉──聖教国の中でも、神威に最も近いと称された実行部隊。神の御心を拳として振るう存在。その名を冠した部隊が、たった一人に、あろうことか“右腕”を失った状態で退けられたなど──。
「……まさか、〈神の右腕〉を……本当に、動かしたのか」
思わず誰かが呟いた問いが、石壁に鈍く反響する。
一瞬、全員の目が一斉に報告者へ向いた後、互いを見回した。
その目に浮かんでいたのは、怒りではない。
──疑念
「……誰だ?」
一拍置いて、声が上がる。
「ふ、ふざけているのか……」
声を震わせて立ち上がったのは、ザール枢機卿だった。彼は怒りか、恐怖か分からぬ声で叫んだ。
「奴は──あの少年は、〈神の右腕〉の名を嘲弄したというのか……!?」
報告を受けた従者が、微かに声を震わせて続ける。
「い、いえ……どうやら、レオンという男は、我らの部隊の名など知らなかったようで……『いい加減にしろ、次は命令した奴だ』と、それだけを──」
その瞬間、場にいたすべての枢機卿の顔色が変わった。
偶然にしても、それは〈神の右腕〉という存在の尊厳すら踏みにじる行為だった。そして、お前たちもこうなるぞ、と言わんばかりの一言。
「馬鹿に、されたのか……」
低く吐き捨てるような声が漏れる。
だが、ザール枢機卿は言葉を失っていた。
真っ青な顔で座り込み、手で額を押さえながら、ぽつりと呟いた。
「どうしたら……いいのだ……」
その声には、これまで一度として揺るがなかった権威も、信念もなかった。
静観派の枢機卿たちは互いに目を交わし、口を閉ざす。
レオンという存在が、ただの“異端”ではないと誰もが悟っていた。
それは神に連なる〈神の右腕〉をも凌駕する力。
あるいは──神の意志そのものすら、拒む“異物”かもしれない。
それは神の代行たる自分たちの立場を根底から揺るがすもの。
もはや「異端」では片づけられない。
(──これは、“災厄”だ)
その本質に気付きながらも、誰も口にはしなかった。できなかった、と言うべきか。
そして押し寄せる恐怖。
(これ以上刺激すれば、次は確実に、自分に刃が向けられるのではないか、いや、あの男はそう言っている)
そんな思考が、何人もの枢機卿の胸中をよぎった。
誰もが自分だけは“安全圏”にいると信じていた。だが、それが脆い幻想にすぎなかったことを、この報告が突きつけたのだ。
だが、胸の奥に芽生えた恐怖だけは、確実に、静かに会議室を侵蝕していた。
◆
翌日。
枢機卿会議。聖教国の未来を左右する決定がなされる場で、かつてない重苦しい空気が漂っていた。
沈黙の中、ラザフォード枢機卿が静かに立ち上がる。
「……我々は、確かに“静観”と決めたはずでした。にもかかわらず、ザール枢機卿の独断で〈神の右腕〉が派遣され、その結果……敗北を喫した」
その言葉に、数名の枢機卿が目を伏せた。誰もその責任に触れようとはしなかった。
「それがどうした、誤った選択を修正するためには行動が必要だ!」
なおも顔を赤らめて吠えるザール枢機卿に、ラザフォード枢機卿は冷ややかな視線を送る。
「誤ったのは、その“修正”ではなく、我々の原則を無視して事を運んだ、そのやり方です。繰り返しますが──これ以上の動きは、危険です。あなたはそれがわかっているのですか?」
静寂。
それは、枢機卿たちの中に芽生えつつあった恐れを、明確に言葉にした瞬間だった。
……あの少年は、もはや「ただの反逆者」ではない。
神の名を冠する精鋭すら退けたその存在は、確かに「何か」を越えている。
沈黙を破ったのは、静観派の中でも慎重論を貫く老枢機卿だった。
「……本来であれば、枢機卿会議の決定を無視し、重大な軍事行動を指示した責任は、厳正に問われるべきではないか。特に、ザール枢機卿と、同調したヴァルド枢機卿の二名においては」
場に緊張が走る。二人の名が明確に挙げられたことで、重々しい視線が集まった。
だが、激しい非難や処罰の声が続くことはなかった。
代わりに、どこか逃げ道を探すような提案が上がる。
「……しかし、今は事を荒立てるべき時ではない。あくまで形式的に、“枢機卿特権の一部制限”という処分で幕を引こうではないか。聖印の発行や任命権の一時停止……その程度で」
その提案に、幾人かが安堵の息を漏らすように頷く。
最小限の犠牲で、最大限の秩序を保つ──いつも通りの幕引き。
だが、それが“恐れ”による選択であることは、誰の目にも明らかだった。
(──今度こそ、静観を貫かなければ。でなければ……我々が壊される)
多くの枢機卿がそう無言で頷き、ザール枢機卿は肩を落として座り込んだ。
「──異議なし」
「今度こそ、“静観”としよう」
「……ただし、動向の監視は続けるべきでは?」
意見が二つに割れる。完全に放置するにはあまりに危険、だが再び手を出せば、今度は我らが崩れる──そんな、ぎりぎりの判断。
そして、肝心の教皇は──いまだ、姿を現さない。
長老にして神の代弁者たるその存在が、いつになく沈黙していることが、事態の不気味さに拍車をかけていた。
ラザフォードは、無表情のまま席に腰を下ろす。
だがその胸中では、冷たい感情が蠢いていた。
(……もとはと言えば、“排除”という決定を最初に提案したのは、私──〈黒翼〉だ)
(我々の無策が、あの怪物に牙を剥かせたのではないか──)
彼の目には、既に「レオン」という存在がただの異端者には映っていなかった。
神の権威さえ通じぬ何か。神話にある“外の理”のような異質さ。
(……あれは、神の御心をも拒絶する、“否定”そのものだ)
誰もが理解していた。
このままでは終わらない。
だが、次に打つべき手は──誰にも、見えていなかった。
◆
聖教国の中心たる神殿都市にあって、外の闇を遮断するかのように光に包まれた聖堂。
だがその地下、誰も足を踏み入れぬ回廊には、古の影が今も棲まう。
ラザフォードは、無言で階段を降りていく。肩に羽織る金糸の法衣の下、内側に隠された黒き紋章──〈黒翼〉の証が、闇に滲んだ。
「……二度の暗殺、いずれも失敗。あの少年、まさかあれほどの力を秘めているとはな」
心なしか声が微かに震えている。そのことに本人は気付いていただろうか。
壁に手を当てると、音もなく石が動き、隠された祈祷室が現れる。そこには、同じく黒いローブを纏った者たちが待っていた。
「お戻りを、ラザフォード卿」
「ザールは使い物にならん。傲りと信仰に溺れた愚か者だ。奴を唆すのもここまでだな……。だが、一定の成果はあった」
「……成果と言いますと?」
ラザフォードは口元だけで笑った。だがその裏で、指先がわずかに震えているのを自覚していた。
不安が喉の奥で渦巻く。しかし、それを表に出すわけにはいかなかった。
「“奴”の力を、はっきりと見せつけることができた。〈神の右腕〉を屈服させた少年……信仰に染まった枢機卿たちですら、次第に“神なき者”に畏れを抱き始めている」
「つまり──」
「そう。“神の導きなき力”がいかに世界を脅かすか。その芽を摘まねば、いずれ正統神信仰そのものが崩壊する。彼らはまだ気付いていない。だが、恐れが熟せば……やがて、その恐怖が信仰を殺す」
沈黙が降りる。
〈黒翼〉の目的は、正統神の否定であり、邪神の降臨による“新たな摂理”の確立である。
ラザフォードはその最奥の計画遂行のため、聖教国の中枢に長く潜み、枢機卿たちを操作してきた。神を語りながら、裏では神を殺すための布石を着々と打ち続けていたのだ。
──だが、あの少年だけは、計画の中で唯一、予測不能だった。
(……奴が、もし自分の素性を嗅ぎつけていたら? ここに来るのも時間の問題ではないのか?)
(教皇の沈黙が、それを意味しているとしたら──?)
思考の底で広がっていく疑念と恐怖を、ラザフォードは心の奥へ押し込めた。
今ここで、弱音を吐くわけにはいかない。
「教皇が沈黙を守るのも、我々にとっては好機。……〈門〉の確保さえできれば、いずれ儀式は再開できる」
「ですが、レオンは……?」
「放ってはおけん。だが、今は動く時ではない。次に殺す時は、確実に──そして神の名ではなく、“我ら”の名で果たす」
そう言うと、ラザフォードは黒き羽飾りを手に取った。
言葉に力を込めることで、己の揺らぎを上塗りする。
恐怖などない。あれはただの障害だ。そう思い込ませるように。
「その時が来たら……この〈黒翼〉を再び、世界に知らしめてやろう」
祈祷室に響く、囁きにも似た笑い声。
それはまるで、遥か彼方に眠る邪神へと捧げられる讃歌のように──静かに、しかし狂気を孕んでいた。
ラザフォードの笑みは冷たいままだったが、その瞳の奥では、微かに震える影が、まだ消えずに残っていた。
◆
白銀の礼拝堂の奥、聖なる祈りの間。冷たい石床に跪きながら、〈聖女〉セラフィーナは掌を組み、声なき祈りを捧げていた。差し込む光がステンドグラスを透かし、床に七色の影を描く。だがその心は、神にではなく、いまだ見ぬ一人の少年へと向けられていた。
──レオン。
名を口に出すことは憚られた。枢機卿会議の場でさえ彼の存在は「問題」として扱われ、神の加護なき者、異端の芽として捉えられている。
枢機卿会議の報せ。二度も彼に、暗殺部隊が差し向けられたという事実。
──しかも、その“理由”は、神に選ばれなかったから。ただ、それだけ。
(本当に……これが、正しいの……?)
白い祭服の胸に手を当てる。指先がわずかに震えていた。
「神の教えは……人を幸せにするもののはず。なのに、なぜ……?」
その教えを掲げる国が、信仰の名のもとに一人の少年の命を何度も狙う。
その少年は、怒りも憎しみも飲み込みながら、ただ真っ直ぐに立っている。
だがその彼が、二度に渡って聖教国の精鋭を退けた。
ただの力ではない。彼が見せたのは、理不尽なまでの強さと、そして……敵の命を奪わず、赦した心だった。
(神の加護なき者が、どうしてそんな強さを得たの……?)
もしかしたら、それは“神”ではない何かに由来するのかもしれない。
それは確かに、教義に照らせば“異端”だ。だが、異端とは本当に“悪”なのか?
(彼は神に従わぬ者として、我が国に反旗を翻すことになるのだろうか……)
もしレオンが、聖教国のあり方に疑問を抱き、対立する立場に立ったとしたら。
神の名の下に、彼を討つべきだと命じられたとしたら。
──自分は、それに従えるのか?
神に仕える者として、〈聖女〉として、彼女は神の意志に従うべきとされてきた。
だが、どうしても拭えなかった。
レオンという「持たざる者」が持つ、静かなる光を。
レオン。
いまだ顔も声も知らぬ、だが確かに心のどこかを強く揺らす存在。
何かに頼らず、されど揺るがずに歩むその姿は、むしろ──
(……彼こそが、人を導く者なのではないか)
聖教国の敵となるのか、あるいは──何かを変える者となるのか。
(……もし、あなたがこの国と戦うなら。私は……私は、どうすればいいの……?)
答えはまだ、影の中だった。
だが、セラフィーナの心には確かに、小さな裂け目が生まれていた。
それは神の光では癒せぬ疑問であり──いつか、彼女自身を決断へと導くものとなるだろう。
セラフィーナは、祈りの言葉を口にしながらも、神ではなく、遠く離れた一人の少年を思い続けていた。
彼女の胸には、聖教国のあり方そのものへの疑念が、静かに芽吹いていた。




