第118話 刺客再び
中立都市ラドニア──王国と帝国、聖教国までもが利用する交易の要衝。
あらゆる勢力の利害が交錯しながら、都市そのものはいずれの国にも属さぬ中立を保っていた。
そのラドニアを目前にした街道に、一人の男が立ち止まる。
風に揺れる外套。栗色の髪。ゆったりとした呼吸。
レオンは、空を仰ぐようにしてわずかに目を細めた。
「……また、か。本当に、どこまでもしつこい奴らだな」
風に紛れるような、だが確かに感じ取れる殺気が、森の奥に蠢いていた。
人ならざる気配。研ぎ澄まされた沈黙。まるで、存在自体を削ぎ落としたような“空白”だ。
それは前回の暗殺団よりも、遥かに練度が高く、死の匂いを孕んでいた。
「聖教国は諦めが悪い……まだ諦めきれんのか。いや、そうじゃないな」
レオンの口元に、皮肉と軽蔑が混じる笑みが浮かび、言い直す。
「狂信者ってのは、実に始末に困る。自分を捨てた奴に理屈は通じん。全くもって始末が悪い」
森の奥で、気配はわずかに動いた。音も立てず、風も揺らさず──しかし確実に“こちら”を探っている。
まるで獲物を狙う蛇のように、慎重に、じわじわと間合いを詰めてくる。
「前の連中と違って、“仕事”に慣れてやがる……」
先日戦った暗殺者たちより、明らかに洗練された気配。
「なるほど。今度は別口ってわけか……あの国、どれだけ底を隠してやがる」
彼らの名──〈神の右腕〉──などという言葉すら、まだレオンの知識にはない。だがそれでも、直感が告げていた。だが、この“質”は只者ではない。
(これは、“本命”だな)
レオンは、ゆっくりと街道から外れ、獣道へと足を向けた。
茂みを抜け、人気のない、視界の開けた岩場の高台へと出る。
「尾行するなら、せめて殺気ぐらいは消してみせろよ」
森に向かって投げかけるように、レオンがクックッと笑う。
「いや、わざとか? そうでもしないと気付いてもらえない不安でもあるのか?」
「自己顕示欲が強い暗殺者なんて、稼業失格じゃないのかね?」
誰にともなく呟くように言いながら、腰の剣に軽く手を添える。構えはまだ取らない。
「確かに前とは違うな……だが、実力的には、そう大差なさそうだ」
鼻で笑うような吐息。小馬鹿にしたような、あるいは心底軽蔑するような声音だった。
空気が一瞬、凍りつく。
気配が跳ねた。森が、息を潜める。
──来る。
レオンは剣を抜かず、ただ静かに目を閉じた。
風が木々を撫でる音の中に、“死”の気配が確かに滲んでいた。
「この場で決着をつけたいってことか……ふむ、いいだろう。少しは退屈しのぎになるかもしれん。いや、せっかく相手してやるんだ。せいぜい頑張ってもらわないとな」
静かな嘲笑を見えぬ相手に向け、レオンは風の中へと身を沈めた。
そして、〈神の右腕〉が牙を剥く。
静寂を裂くように、鋭い殺気が走った。
──来た。
風に紛れ、音もなく飛来した一条の銀。
だが次の瞬間、レオンの栗色の髪がふわりと揺れた。
身体がわずかに傾き、風を裂く音が耳をかすめる。
刃は空を切った──ように見えた。
しかし、レオンの右手は宙に上がっていた。
その指先には、放たれた刃が挟まれている。人差し指と中指の二本だけで、寸分の狂いなく受け止めていた。
「危ないじゃないか。刃物の扱いには、十分気をつけなくちゃ駄目だろう?」
レオンが軽く笑みを浮かべた瞬間、刃が〈原初の力〉で『加速』され、疾風のごとく返された。
指で弾かれたそれは、一直線に放たれた方向へ舞い戻る。
木陰に隠れていた襲撃者の喉元へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。
鈍い音が響き、襲撃者は呻く間もなく、背後の木へと喉を貫かれたまま磔にされる。
ぶら下がったまま、両手を小さく痙攣させ、やがてぐったりと沈黙した。
「はい、まずは一匹」
レオンは一歩、音もなく前に出た。
その足取りには、ためらいも哀れみもない。
あるのはただ──冷ややかな静寂と、自分に向けられた、確実な殺意の処理だけだった。
その瞬間、四方から飛び出す気配──全方向同時の奇襲。
樹上、地中、陰の中から、五人の暗殺者がほぼ同時に飛び出した。
黒い外套に顔を覆い隠した、正体不明の者たち。だがその動きは、人の域を明らかに超えていた。
獣のような脚力での踏み込み。獲物を狩る刃が閃く。
重力を歪めるかのような一撃、視界を攪乱する幻影、空間そのものが軋むような術式。
──まさに、聖教国が誇る秘匿戦力、〈神の右腕〉の本領だった。
だが。
レオンは、微動だにしなかった。
一閃。
次の瞬間には、光が走っていた。
それは剣ではなく、動きそのものが放つ閃光だった。
「試してみるか……」
攻撃が来る前に。
敵がそこに姿を現す前に。
レオンの身体は既に動いていた。
右から迫る刃を、顔を上げずにすり抜ける。肩越しに通り過ぎる拳を紙一重で躱す。
軌道を読んでいるのではない。──結果を先に知っているかのように、完璧に対応していた。
まるで未来を見ているかのように──その動きは一切の無駄がなく、美しかった。
それでも、周囲の空気ごと相手を切り裂いているかのような鋭さがある。
対する〈神の右腕〉の暗殺者たちに、焦りの色が浮かびはじめる。
"……おかしい。全ての攻撃が見切られている"
"気配も術も、時間差も通用しない……この男、一体……"
次第に焦燥が広がる。呼吸が乱れ始める。
足がすくみ、膝が震える。
「……何をしている?」
一人の暗殺者のすぐ背後で、レオンの声が、静かに響く。
悪寒。恐怖。
男がバッと飛び退く。
「そろそろ、本気で来たほうがいい。でないと──」
一拍置き、続ける。
「──死ぬぞ?」
その声には、怒りも焦りもない。ただ冷たい、確信であり決定。
狩る者の眼。逃げ場など最初からないと知っている者の眼だった。
戦場に吹く風の音が、一瞬止んだように感じられた。




