第117話 独断
荘厳な石造りの会議室。
中央に置かれた白銀の円卓を囲むようにして、枢機卿たちは沈黙していた。
壁にかかる七つの光輪を象った紋章──神聖評議会の象徴。その下に、封蝋の割られた書簡が無言で置かれている。
重々しい空気を破ったのは、一人の老枢機卿の咳払いだった。
「……〈零班〉の壊滅。対象の生存。部隊は“圧倒的な力”により敗北。……これは、ただの失敗ではない」
「敗北どころか、力の誇示だ」
別の若い枢機卿が、書簡を睨みつけながらそう吐き捨てた。
その顔は今、怒りと焦燥に歪んでいた。
「これが世に出れば、我らの権威は地に堕ちる。神の名のもとに放たれた刺客が、“異端”に敗れたなどと!」
「だからこそ、今は静観すべきでは?」
重苦しい声が続く中、ひと際柔らかな声が割って入る。
褐色の肌を持つ若き女性枢機卿──和平派の旗手として知られるエレナが、静かに立ち上がった。
「……彼の力はもはや神代に匹敵します。我らの手に負える段階ではありません。これ以上の敵対行為は、神の名を汚すことにもなりかねない」
「ふん。神の名を汚しているのは奴だ。スキルなき者が神の摂理に背き、生き延び、王国の希望などと持ち上げられている」
先ほど声を荒げた青年枢機卿が、怒気を含んだ目で睨みつける。
「異端を許せば、やがて正義が歪む。我々の信仰基盤そのものが崩れるのだ。再度、排除に動くべきだ」
「ならば──どうやって排除するつもりだ? 何か考えがあるなら構わんが」
老枢機卿が重々しく問いかける。
その声音には、叱責の響きすらあった。
「何か策があるのか? 〈零班〉を差し向けた時点で、我々は切り札を切ったのだぞ」
沈黙。
返す言葉はなかった。
力による排除が通じなかったという現実。
神罰を掲げた正義の剣が、まるで風に散る葉のように折られたという現実。
その沈黙の中、ふと、灰衣を纏った枢機卿の一人が静かに立ち上がる。
冷たい眼差しをレンズの奥に宿す、名をラザフォード卿とする男。
「……あれは、“神に選ばれし者”ではない。己の力に酔い、神の秩序から逸脱した異端者にすぎん。だが、我々が動くことで逆に“正統の価値”が疑われるのならば……今は、敢えて動かず“見届ける”のも一手だ」
「ほう……最初に排除を言い出したあなたが、静観を唱えるとは意外ですね」
エレナ枢機卿が目を細める。
だがラザフォードは、怯むことなく答えた。
「人は時に、神すら欺く。だからこそ、真の異端か否か……裁きはしかるべき“兆し”を待つべきだ」
──誰も気付かなかった。
ラザフォードの言葉ににじむ“恐れ”を──。
彼こそ、暗殺部隊〈零班〉を密かに動かした〈黒翼〉の密偵であるという事実を。
(……馬鹿げている。まさか、〈零班〉があれほど一方的に壊滅するとは……“あの男は、我らの想定を遥かに超えすぎている”。完全に“次元”が違う。あれは……災厄そのものだ)
計画の一環として動かしたはずの刺客が、力の片鱗すら引き出すこともできずに消えた。
(このまま排除を続ければ、いずれ己の関与も明るみに出るやもしれん……)
自らの正体が露見する危険、神聖評議会内の立場の崩壊。
ならば──今は「沈黙」こそが最良。いや、“唯一の逃げ道”。力を削ぐ機会を待つのが最善。
「……では、静観とするか?」
老枢機卿の問いに、会議室内で賛否が交錯する。
最終的に、多数決により“暫定的な静観”が決定された。
だがその裏では、それぞれの思惑が密かに蠢いていた。
再度排除を狙う者。接触を試みようとする者。
そして──〈黒翼〉の意図とは別に、“彼”に惹かれ始める者も、確かにいた。
静かに、聖教国の闇が揺らぎ始めていた。
◆
足音が響く、冷たい石の回廊。
微かな燭光が揺らぐ先に、二人の影が交差する。
「……あれほどの力。もはや人ではあるまい」
ひそやかな声。
暗がりの中でフードを被った男──若き強硬派のザール枢機卿が吐き捨てるように言った。
「神に与えられしスキルを持たぬ者が、神の使徒を屠る──そんな理不尽が許されるのか」
「理不尽ではない。“神を冒涜する存在”に、鉄槌が届かなかっただけだ」
応じたのは、同じく黒衣に身を包んだ老年の枢機卿。
その声には微かに焦燥と苛立ちがにじむ。
「だが、我らは沈黙を強いられた。枢機卿会議は“静観”という名の敗北を選んだのだ」
「……ならば動くしかあるまい。我らが“正義”を守るために」
ザール枢機卿は声を潜め、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
そこに記されていたのは、新たな刺客部隊の編成計画。
前回の〈零班〉とは異なり、今回は直接“教団の影”に属する秘密戦力──
「〈神の右腕〉を動かすのか?」
老枢機卿の声が低くなる。
その問いに、ザール枢機卿は静かに頷いた。
「ええ。既に接触は済ませてあります。任務内容は──対象の完全抹殺。二度目はありません。奴が次に現れる前に、痕跡すら残さず消す」
「……本気で〈神の右腕〉を使うつもりか?」
老枢機卿は険しい目で問い詰める。
「奴らを使わなければ討てない。あれほどの力を前に、通常の手段など無意味だ」
ザール枢機卿の言葉には、迷いはなかった。
その瞳には、執念にも似た熱が灯っている。
「……教皇庁には?」
老枢機卿の声に、鋭さが増す。
「知らせる必要などない。あのお方が真に動かれるまでに、“異端”は消えているべきだ。そもそも姿を現さないのですから、問題ありません」
声は冷たく硬い。
ザール枢機卿の眼が、燭光の中で鈍く光った。
「“あれ”が存在し続ける限り、我らの信仰も、世界の秩序も揺らぐ。レオン──あの男は、“存在してはならぬ者”だ」
その言葉に、もう一人の枢機卿も無言で頷いた。
やがて二人の影は左右に分かれ、それぞれ異なる通路へと消えていった。
地下の回廊には、再び沈黙だけが残る。
だがその沈黙の裏で、第二の刃が、密かに鍛えられていた。
“正義”の名を掲げながら、神の意志とは別の──もっと黒く、冷たい、狂信の刃が。




