第116話 刺客
王国南部、ラドニア街道。古き交易都市へと続く幹線路は、昨今の戦乱の余波で往来がまばらだった。
「目撃情報は確かだ。ラドニア方面へ向かっている男……年齢、体格、装束。すべて一致する」
森の中、濃い影の中に紛れるように立つ、漆黒の外套の刺客が小声で報告した。
仲間の一人が仮面の奥から静かに視線を流し、足元の草を踏みしめて進み出す。
「……だが、足跡の流れがおかしい。まるで……こちらに気付いていて誘い込んでいるかのような?」
その声に、空気が一瞬で重たくなった。葉擦れの音すら遠ざかるような沈黙。
「……罠か?」
「まさか……偶然だろう。俺たちが気取られるはずが──」
そう言いかけた声に、別の刺客が食い気味に割り込んだ。
「偶然にしては整いすぎている。進行方向を見ろ、足跡は一見直線だが、林に入った途端に消えている。しかも、この間合い……妙だ」
「奴がこちらの動きを読んでいるとしたら……」
思わず洩れた声に、周囲の面々が目を見交わす。
沈黙。誰も答えなかった。
微かな動悸が、互いの沈黙の中にこだました。
彼ら〈零班〉にとって、狩りは儀式だ。静謐にして冷酷、成功して然るべき。それが崩れるという前提は、任務の中に存在しない。そこに例外は許されない。
だが今回は、何かが違っていた。
獲物が──獲物であることに、誰もが微かな違和を抱き始めている。
沈黙のまま、〈零班〉の面々はそれでも、定められた獣道を辿っていく。
疑念という名の毒を胸に抱きながら──。
一方、その獲物であるレオンは、修行の一環として、【原初の力】による【空間感知】を常時展開することによって、確かに異物の気配を感じ取っていた。
周囲の気配、空気の流れ、草木のざわめき──そのすべての「歪み」が、彼に敵の接近を告げていた。
背後にまとわりつく“意図的な無音”。音そのものが、何かに押し殺されているかのようだった。
──追われている。
足音も息遣いもない。
レオンはわずかに眉をひそめる。
(……気持ち悪い、というより不快な気配だな)
無表情のまま街道を外れ、木立の奥へと踏み入る。
人気のない小丘の上、風が梢を揺らし、夕陽が斜めに射し込んでいる。
レオンはその中心に立ち、ゆっくりと振り返った。
吐き捨てるような声で、鼻先を歪める。
「こそこそと陰に隠れて、威勢だけは一人前か。……さっさと来いよ。いつまで匂いだけ漂わせてるつもりだ。こっちはそんな臭気に付き合うほど暇じゃないんだぞ?」
その声は囁くように低かったが、静寂を切り裂くように、確かな輪郭をもって辺りに響いた。
あたかも──そこに潜む何かを、嗤いながら引きずり出すかのように。
次の瞬間、森の影から音もなく現れる数人の影。
仮面、漆黒の外套、そして押し殺した無言の殺意。
風すら止まるような気配の中、一人が前に出る。
「レオン・アルテイル。神の御名において、お前を“浄化”する」
それはまるで、儀式の一節。
冷たい正義を仮面に宿した、無機質な宣告だった。
だが、レオンの瞳には一片の揺らぎもなかった。
それどころか──心底、呆れたように息を吐く。
「浄化、ねぇ。それはそれはご苦労なこったな。だが、まずはお前たちの腐臭を浄化した方がいい……耐えられん。それに、人違いだな。俺はレオン・アルテイルなんかじゃない」
「この期に及んで怖気づいたか?」
それを聞いたレオンは、思わず噴き出すように笑った。
「怖気づく? お前らみたいな小物にか? あっはっは。ずいぶん自信たっぷりじゃないか」
「貴様、ふざけているのか?」
「すまん、つい……本音が漏れてしまった。だがお前たちが悪いんだぞ? 滑稽すぎて、笑いを我慢できなかったんだからな」
レオンの挑発に、静かに、だが確実に、男たちの殺気が膨れ上がっていく。
「……ちなみに、アルテイルの家名はもう五年前に捨てた。お前らの情報、何年遅れてるんだ? 情報ってのは命だぞ。──違うか?」
静かに、しかし確かな意志が込められた声だった。
それは、過去を背負わぬ者の、解き放たれた強さ。
レオンの右手が、ゆっくりと腰元へと下がる。
誰にも見えぬ速度で、空気が張りつめ、地を這うような殺気が爆ぜる。
「まあ、いい……来い。まとめて相手をしてやる」
その一言が、開戦の合図だった。
森の静寂が破られる。
神の名のもとに放たれた刃と、異端とされた者の意志が、今、ぶつかろうとしていた。
森を裂くように、仮面の暗殺者が一人、疾風の如く駆けた。
抜き放たれた細身の刃が、夕陽を反射し、一直線にレオンの喉元を狙う。
「……」
しかし──その瞬間。
何かが“煌めいた”。
レオンは構えすら見せなかった。ただ、わずかに身体を傾け、右腕を振る。
一閃。
動きは最小限、だが一撃は絶対だった。
刺客の刃が届く寸前、レオンの剣が水平に薙がれる。
切断音もなく、仮面の男の動きが止まる。
そして──
ぐらり、と上体が傾ぎ、その首が胴からすっぱりと滑り落ちる。
仮面ごと斬られた頭部は、地面を跳ねながら転がり、静かに──刺客たちの足元で止まった。
その瞳孔の奥には、死の直前まで消えなかった驚愕が焼きついていた。
誰も動かない。
誰も息を吸えない。
静寂の中、レオンが一歩、前へと踏み出す。
残された四人が即座に反応し、半円を描くように包囲しながら、反射的に飛び掛かろうとした。
だが──。
「……やめておけ」
その声が空気を震わせると同時に、“何か”が落ちた。
否──空間そのものが、見えぬ力によって上から圧し潰された。
大気が軋み、足元の土が沈んだ。
四人の身体は弾かれるように地へと膝をつき、次いで顔ごと強制的に押し付けられる。
「な……ぐぅ……っ……!」
咽び声のような呻きが洩れるが、それすら空気に飲まれて消える。
肌を這う重圧。骨ごと潰されるかのような圧倒的な“存在”が、抗う術もなく彼らを圧し潰さんとしていた。
「……さて、どうするかね?」
その中央で、レオンはただ静かに佇んでいた。
衣の裾一つ揺らさぬまま、静かに目を伏せて呟く。
息を呑んだのは、刺客たちではなく、空気そのものかもしれない。
「……どうやら神様のご加護はなかったようだな」
その言葉は皮肉ではなく、ただの事実確認。冷たい現実の通知。
「お前たち、信仰が足りないんじゃないか? ……いかんな、ちゃんと祈れよ」
今度は明らかに皮肉だった。
「まあ、いい。命まではとらんから、帰っておとなしく浄化──便所掃除でもしているといいさ」
その言葉とともに、重圧がすっと消える。
息が一気に肺へと流れ込み、四人の男が、荒く喘ぎながら地に伏したまま、震える指で立ち上がろうとした。
その顔に、もはや戦意はなかった。
──だが、その中の一人だけは違った。
他の者が恐怖と理解に打ちひしがれる中、ただ一人、顔を上げ、低く唸りを上げる。
握り締めた拳が地面を叩き、震える膝が再び立ち上がろうとする。
その手が、刃の柄にかかる瞬間──
「……やめておけと言ったんだがな?」
静かな声だった。
だがその響きは、氷よりも冷たく、死よりも無慈悲。
次の瞬間、空間そのものが軋むような音と共に、再び“それ”が落ちた。
しかし、先ほどまでの重圧とは比べ物にならない。
空気が悲鳴を上げ、大地が呻き、男一人にのみ圧縮された“力”が降り注いだ。
「が……あ、あ……が、があぁっ……!!」
肉が潰れる音、骨が悲鳴を上げるようにバキバキと軋み、次々に内部から崩れていく。
仮面の下で目を見開いたまま、男の顔が変形し、鼻腔から血と泡が吹き出した。
皮膚の下で肋骨が折れ、肺を貫く音すら聞こえる。
吐き出したのは言葉ではなかった。
それは、喉を破るような嘔吐と、内臓の液体だった。
そして──
グシャッ、と鈍く嫌な音を立てて、男の身体がその場に沈み込む。
腕は奇妙な角度でねじれ、足は踏みしめた形のまま地に埋まり、仮面が割れて白目を剥いたまま、ピクリとも動かない。
息絶えた。
その死に様には、もはや“戦い”の影すらなかった。
残された者たちは声も出せなかった。
目の前で見たのは──力による殺しではない。
“意志だけで命を絶たれた”という現実だった。
沈黙の中、レオンは軽く一つ息を吐いた。
「まったく……お前たちは早く帰るんだな。次は容赦しないぞ。こうはなりたくはないだろう?」
恐怖ではなく、“理解”──それが彼らの中に芽生えていた。
自分たちは、今ようやく知った。
本物の“力”とは、牙を剥く必要すらないということを。
そして、その圧倒的な差が──次に会えば命がないことを告げていた。
森に背を向け、レオンは静かに歩き出す。
風が、彼の背に差し込んだ陽光を揺らした。
三人の男たちは立ち上がることもできず、ただその背を見送るしかなかった。




