第114話 拒絶
第一王子ラグナルの更生という、やりたくもない王家の尻拭いが一段落し、レオンは次の動きを決めていた。
「……次はラドニアに行こう。そこで情報を集めるとしようか」
王都滞在の目的は、もはや残されていない。
目下の優先事項は〈黒翼〉の動向、聖教国、そして帝国に関する情報だった。
旅の準備のため王都の市場を巡る。保存食、薬草、地図、旅装──必要な物資を一通り揃え、日の傾き始めた頃、宿へと戻った。
そこで、思わぬ報せを受ける。
「客人がいらしていますよ、レオン様。つい先ほど到着なさったばかりで」
「……客人? そんな予定はないがな」
眉をひそめつつ、階段を上がる。
部屋の前で待っていたのは、上等な詰襟服に身を包んだ男──ライエン侯爵家の使者だった。
「これは、初めまして。第二王子ユリウス殿下にお仕えしております、ライエン家の使者でございます。レオン様に拝謁の栄を賜り、恐悦至極に存じます」
「ライエン侯爵……面識はないのだが、まあ座ってくれ。話くらいは聞こう」
レオンは淡々と返し、内心では既に面倒ごとの匂いを察していた。
だが使者は、すぐに本題に入ろうとはしなかった。
「恐縮ながら、殿より預かりました要件は、この場では少々……。できれば、より静かな場所にて、お伝えしたく存じます」
その言葉に、レオンの表情がすっと険しくなった。
「……ここではできない話、か。──堂々と口にできないような話なら、俺には興味がないな。お引き取り願おうか」
突き放すような一言に、使者の顔色が明らかに変わる。
「ま、待ってください! どうか、お引き取りの前に、ほんのひとときだけでもお時間を……!」
使者は思わず椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。上等な詰襟服の裾が揺れ、彼の声には焦りがにじむ。
「ならばさっさと話すといい。それだけのことだ。簡単なことだろう?」
「これは殿下の、いえ、ライエン侯爵家としても……極めて重要な、誠に重大な話なのです! どうか、どうかお耳をお貸しくださいませ!」
レオンは無言でしばらくその様子を見つめていた。眉間に皺を寄せ、軽く息を吐く。
「……仕方ないな。わかった。案内してくれ。ただし──俺に一切期待はしないことだ」
使者は目に見えて安堵し、もう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございます、レオン様……」
レオンが腰を上げると、使者は丁重に頭を下げ、手慣れた仕草で外へと導いた。
連れて行かれたのは、王都の一角にある上級貴族専用のサロン。白亜の建築と静かな庭園を有する、格式と警備の両面で優れた場所だった。
応接室に通されると、紅茶と菓子が用意されている。
「さて……改めて聞こうか。用件を」
レオンは椅子に腰を下ろし、正面の使者を見据えた。
使者は姿勢を正し、静かに頷き、一礼すると、懐から丁寧に封緘された書状を取り出した。
封蝋には、王家の紋章と共に、第二王子ユリウスの個人印が刻まれている。
「こちらは、殿下直筆の書状にございます。どうかご一読を」
差し出されたそれを、レオンは無言で受け取り、封を切る。
中には、流麗な筆跡で綴られた一通の文。
その文面に、レオンは視線を滑らせる。
──内容は、丁重かつ明快だった。
『王国の未来を思い、貴殿の助力を乞う。その力はもはや、個人に留まるものではなく、国家を導く灯火であると、我は確信している』
『我が陣営に加わるならば、いかなる地位でも与えよう。公爵の席も視野に入る。領地は選ばせ、財も惜しまぬ』
『名誉、安全、未来──我が名に懸けて守ることを、ここに誓う』
書状を読み終えたレオンは、しばし黙し、手元の文を静かに折り畳んだ。
使者が促すように口を開く。
「……殿下は、貴殿を対等の盟友として迎えたいと考えておられます。いかなる条件でも応じる覚悟にございます。地位、領地、財──すべてをご用意いたします」
レオンはふっと息を吐き、表情を変えぬまま言った。
「……俺みたいな“持たざる者”に、ありがたい話だ。だが、断る」
使者がわずかに動揺を見せたのを、レオンは見逃さなかった。
「王子と“持たざる者”が対等の盟友など、あり得るわけがなかろう? そもそも、俺は名誉や財宝を欲して動いてるわけじゃない。……まして、誰かの“陣営”に入るつもりもない」
それは明確な、拒絶の意思表示だった。
使者は口を開きかけたが、言葉を飲み込む。
レオンの瞳の奥に宿る確信は、揺るぎないものだったからだ。
「……御返答、確かに承りました」
「わざわざ使者に来ていただいたのに、すまないな」
深く頭を下げた使者は、それ以上の言葉を口にせず、退出の準備を始める。
その背を見送りながら、レオンは椅子に背を預け、目を細めた。
この動きの裏に何があるのか。
そして、これがどれだけの波紋を生むのか──
彼には、分かっていた。
それが自分を縛る理由にはならないことも。
◆
ユリウスの執務室にて。
使者は慎重に膝をつき、静かに報告を終えた。
「……以上が、レオン様からのご返答にございます。正確を期して、仰せのままにお伝えいたします」
『俺は誰かの都合のいい駒になるつもりはない。誰の陣営にも入らない。安心しろ、第一王子の陣営にも──今のところは、だ』
『だが、俺がどこへ行くかは俺が決める。俺にはやるべきことがある。今はそれを優先するまでだ』
『跡目争いなど、自分の力でやれ。俺みたいな“持たざる者”に頼らずとも、選ばれた、恵まれた身分なのだから可能だろう? まあ、これ以上俺に関わるなと伝えてくれ』
ユリウスは沈黙したまま、机上に組んだ両手を見つめていた。
「……ふん」
ユリウスは、鼻で笑うような吐息を漏らした。
しかしその瞳には、笑みの色はなかった。むしろ、静かな怒気が澱のように沈んでいた。
「“自分の力でやれ”、か。……馬鹿にしてくれるではないか」
呟いた声には、怒りと屈辱が滲んでいた。
これまで散々持ち上げられてきた貴族たちにすら、ここまで露骨に言われたことはない。
その言葉には、王族という身分への冷ややかな皮肉と、徹底した一線が込められていた。
「殿下、あの者は……いささか礼を欠いておりますな」
側近が遠慮がちに口を挟む。
「無礼、か。違うな。あれは、“関わるな”と釘を刺してきたのだ」
椅子の肘掛けを握る指先に力がこもる。
レオンは明らかに、王家内部の争いに巻き込まれるつもりはなかった。
だが、それと同時に、自分を完全に遠ざけたわけでもない。
その言葉は、明確な拒絶であると同時に、未来の可能性を完全には否定していなかった。
そして何より──兄ラグナルのもとへ行く可能性も、消してはいなかった。
「……“今のところは”、か」
ユリウスが低く呟いた声には、感情が滲んでいた。
「はい。第一王子の陣営に加わるつもりはないが、それを永久に否定するものではない、との含みがありました」
使者の言葉が、まっすぐユリウスの胸を刺す。
「殿下……いかがいたしますか」
控えていた側近が声を潜める。
「……焦るな。だが、軽んじるな。あれは、我らとは違う理で動いている」
ユリウスは答えるも、内心は穏やかではなかった。
(あの男が、もし兄の手に落ちれば──)
ぞっとするような予感が背筋を這った。
力を持ち、民に名を知られ、王さえ一目置く存在が、ラグナルに加担すれば……第二王子としての自分の立場は、一気に危うくなる。
(今はまだ中立。だが、いつまで続く? どの瞬間、何のきっかけで傾く?)
焦りと苛立ちが心を満たしていく。
これまで描いてきた盤面に、予測不能の駒が現れたのだ。
(どうやら最初から見透かされていたということか……)
ユリウスは椅子にもたれ、天井を見上げた。
怒り、悔しさ──だがその奥に、わずかに滲んだ安堵。
レオンの言葉が偽りでない限り、保留付きではあるが、自分の敵となることはない。
今は、それで満足するしかない。
「使者には労をねぎらってやれ。……ライエンには、礼を通しておけ。だが、今後レオンへの接触は、慎重にな。あれは──そう簡単に懐柔できる男ではない」
「はっ」
ユリウスは、己の拳を見つめるようにして呟いた。
「結局のところ……“持たざる者”に、こうまで言われるとはな。我々は、生まれながらに選ばれたはずなのに──なぜ、こうも追い立てられる?」
その問いに、誰も答えられなかった。
王の血を引く者にしては、あまりにも皮肉で、あまりにも無力な言葉だったから。
低く、しかし鋭い声で言い放つ。
「レオンの“意思”を見誤るな。奴は、こちらの事情など意に介さぬ」
ユリウスの視線は窓の外、王都の夕焼けを見据えていた。
その眼差しは、王家の血を引く者としての誇りと、自身の未来を賭けた焦燥に揺れていた。




