第110話 最終日
空は鈍く曇り、訓練場に淡い光が差し込む。
今日も、いつもの騎士たちが見守る中──その中心に立つ二人の男。
静けさは、かえって剣戟の予兆を鋭く研ぎ澄ませる。
「──覚悟はできたか?」
レオンの問いかけは、静かに、しかし確かに訓練場の空気を切り裂いた。
ラグナルは答えない。
眼差しは鋭く、言葉の代わりに剣を構える。
次の瞬間、足を踏み込み、剣が振るわれた。
それはこれまでとはまるで違う──明確な「殺意」を帯びた、一撃必殺の剣だった。
目の前の男を斬る。それだけを目的とした純粋な殺人剣。
だが。
「……」
レオンの剣が、風を切り裂く。
ガキィン!
金属が跳ねる鈍い音。ラグナルの剣はまたしても弾かれた。
身体が一瞬浮き、よろめきながら着地する。
それでもラグナルは諦めない。食いしばった歯の奥から、荒い息が漏れる。
言葉は交わされない。互いに沈黙のまま、数合が交錯する。
そして、レオンが足を止める。
次の瞬間。
「……もういい、終わりだ」
レオンが、左手を上にかざす。
いや、“力”を解き放った。
空気が、捻れた。
空間が、歪んだ。
まるで大地ごと圧し潰されるような、重力とも違う、存在そのものを否定されるような威圧。
それは、〈原初の力〉──修行を経て彼が手にした、常軌を逸した力の片鱗。
「ッ……!」
誰かが呻いた。
否、呻くことさえできぬ者がほとんどだった。
騎士たちは全員、身体が見えない枷で縛られたように、動けない。
地面に膝をつく者、直立不動のまま動けずにいる者。
誰もが本能で悟った。
──殺される、と。
生を否定されるほどの絶対的な“圧”に、目も、意志も、ただ圧し潰されるしかない。
その中心。ラグナルもまた、同じように膝をつき、息を詰めていた。
恐怖。
本物の死を前にした、抗えぬ畏れ。
剣など、訓練など、全て意味をなさないほどの“力”を前に、王子の誇りなど、簡単に砕け散る。
その静寂の中で、レオンが口を開いた。
「──俺は、初日に問うたな」
その声は、威圧の中でも明確に響く。鼓膜に届いた音ではない。魂に刻まれるような“声”だった。
「『お前のその怒りの先に、何がある?』と」
ラグナルの肩が微かに震える。
「『殺して満足か? 倒して、何を得る?』と──」
もう誰も声を発せられない。ただ、その言葉が空気に突き刺さる。
レオンは静かに歩み寄りながら、ラグナルを見つめる。
「こうも問うた。『お前は、何を原動力に剣を振るうのか』……と」
レオンの瞳が、真正面からラグナルを射抜く。
「──答えろ、ラグナル・エルダリオン」
沈黙。
訓練場に、ただ冷たい風が吹き抜けた。
◆
訓練場は沈黙に沈んでいた。
レオンの〈原初の力〉が放つ威圧の中、誰も動けず、誰も呼吸すらまともにできなかった。
そして、その静寂を破るのは、レオンの声──ただそれだけだった。
「──お前は、常々言っていたな」
レオンの足音が、砂利を踏む音さえ響かせて、ラグナルへと近づいていく。
「自分は王子だ。選ばれた存在だ。いずれ王になるのだ、と」
重く、冷たく、それでいてどこか哀しげな声音だった。
「では、問おう。お前は、王になって、“何を為す”?」
ラグナルの目が、微かに揺れた。
「誰のために剣を取り、誰を守るのだ?」
レオンの問いは、鋼よりも重く、誰よりも鋭い。
「……答えられないのか」
そう呟くと、彼の言葉が刃となって畳み掛ける。
「お前は、自分が“選ばれた存在”だと勘違いしている。選ばれた『こと』と、選ばれた『存在』であることの違いも分かっていない」
空気が、さらに重くなる。
「“選ばれた”からといって、傲慢でいいのか? 感謝しなくていいのか? 俺が薬を渡した時、お前は礼を言ったか? 騎士たちが手当てをしてくれた時、労いの言葉一つ、あったか?」
ラグナルの拳が震えた。それが怒りか、羞恥か、恐怖か、自分でも分からない。
「誰かに感謝したことはあるか? 謝罪したことは?」
──ない。
心の奥底で、ラグナル自身が答えていた。
「先日、お前は兵士を斬ったな。問答無用で。あれは貴族の子ではなかった。スキルもない。ただの兵士だ」
レオンの瞳が、ひどく冷たく、澄んでいた。
「だが彼には家族がいる。仲間がいる。生きる理由があった。だが……お前の剣で、そのすべてが断たれた」
ラグナルの喉が詰まる。言い返す言葉もない。
「だが、お前は何も感じていない。王子ならば何をしても許されると、そう思っている。違うか?」
沈黙が肯定となる。
「──お前たち、“選ばれた存在”だと信じ込んでいる者はな」
言葉に怒気が混じる。
「スキルを与えられただけで満足し、傲慢になり、他者を見下す」
「そして、与えられなかった者が必死に努力をすれば、鼻で笑い、無駄だと断じ、嗤い、蔑む」
視線が強くなる。
「だが──その努力が実を結び、自分を超えてみせた時」
低く、押し殺した声で。
「お前たちは、苛立ち、妬み、嫉み、怒る。自分の価値を否定されたかのように」
「だから、認めようとしない。己はまともに努力もしないくせに、な」
レオンはふと、目を伏せ、そしてぽつりと呟いた。
「……俺は、そんな人間を腐るほど見てきた。なにせ、一番身近なところにいたからな」
ラグナルの瞳がわずかに揺れる。
「──エリオット・アルテイル、俺の兄だ」
場の空気が、さらに冷えた気がした。
「奴は、〈聖騎士〉のスキルを授かり、そしていつも俺を、他者を見下していた」
「俺の努力を認めることはなかった。努力の末に俺が力を得たことさえ、認めようとしなかった。いや、認めることが出来ず、それ故に、歪み、壊れ、闇に堕ちた」
レオンは言葉を一つ一つ叩きつけるように吐き出す。
「……そして、死んだ。奴の最期まで、分かり合うこともなく」
そこには怒りではなく、静かな哀しみがあった。
「お前も、エリオットと同じだ。このままでは──いずれ同じ道を辿る」
静かに、だが確かな決意をもって、レオンは言い放った。
「だから、その前に……殺す」
凍てつくような言葉が、場を支配する。
ラグナルの顔が引きつる。膝が震えた。
そして、最後の問いが落とされた。
「──言い残すことは、あるか?」
風の音さえ止まったかのような、深い静寂が訓練場を包み込む。




