第106話 覚悟と哀しみ
帝国・聖教国へと表向きの正式説明を終えた後、王アルヴァン四世は別の悩みを抱えていた。嫡男第一王子ラグナルの件だった。
ラグナルが謹慎処分を受けてから二ヶ月。その傲慢で他者を見下すような態度に、一向に改善の余地が見られないことから、荒療治という措置がとられていた。一般兵士と共に衣食住、厳しい訓練を送らせていたのである。だが、事件はそのさなかに起きた。
王宮の執務室。重い空気の中、宰相は慎重に言葉を選びながら報告を始めた。
「陛下、第一王子ラグナル殿下が訓練中に一般兵士と口論となり、ついには剣を振るって相手を殺害いたしました。現場の兵士たちが即座に介入し、事態を収束させておりますが、事態は深刻でございます」
王は静かに息を吐き、額に深い皺を寄せた。
「……かつてない問題だ。あの者の傲慢な性格は承知していた。だが、ここまでの暴走……これは、もはや単に愚かさでは済まぬ」
低く押し殺された声には、確かな怒気が滲んでいた。
だが、その奥底にあるのは怒りだけではない。
──深い失望。そして焦り。
王の手元にある事件の報告書は、既に幾度となく読み返されたのか、端がわずかに皺だっている。
指でその角を押し潰すようにしながら、王は絞り出すように呟いた。
「教育を任せていた監督者の報告はどうだ?」
宰相は淡々と、しかしその声音には厳しさが滲んでいた。
「王子は依然として自己中心的な態度を崩さず、指導者の言葉にも反発し、責任を認めようとしません。兵士たちとの生活は苦痛のようですが、王子の自尊心がそれを許さず、逆に事態を悪化させております」
王は重く瞼を閉じ、内心の苛立ちと狼狽を押し隠す。
胸の奥で、重くのしかかる問いが膨れ上がる。
(……これが、王家の未来を担うはずの男の姿か?)
だがその問いの奥に、もっと根深いものが潜んでいた。
──我が子への教育に失敗したのではないか。
確かに、勉学や剣術、礼儀作法といった表層的な教育は施してきた。だが、人としてどう生きるか、民とどう向き合うかという「人間教育」は、何一つなされてこなかった。傲慢で我儘な性格、そして自身を、“選ばれた特別な存在”と信じる選民思想──それらがこの悲劇を招いたのだ。
そして、もう一つ重大な過ちがあった。
王子の周囲には、その性格や思想を正面から窘め、改めさせようとする者が一人としていなかった。誰もが王子の機嫌を損なわぬように立ち回り、事なかれ主義に徹していたのだ。
教育を任せる者たちにしても同様である。蓋を開ければ皆、権威に迎合するだけの者ばかりだった。結局、真に王子と向き合う者など、誰一人として存在しなかったのである。
王は「王子の導き手」として人選したつもりだったが、その点でも既に失敗していた。
だが皮肉なことに、その根本的な原因に、王自身も、そして宰相すらも気付いていない。
いや、気付いていながら目を背けているのかもしれない。なぜなら──彼らの心にも、程度の差こそあれ、同じような優越感や隔たりが、確かに存在しているのだから。
王は己の内側で高まる焦燥と恐怖を必死に抑えながら、ようやく重い口を開いた。
「……もはや単なる教育の問題ではないな。このままでは王家の威厳が揺らぐ。だが、王子をただ追放するわけにもいかぬ……」
王は目を伏せ、しばし沈黙する。
(どうして、ここまで歪んでしまったのだ……)
その沈黙の底には、抑えきれぬほどの深い失望があった。
口元に手を当てたまま、王は考え込むように虚空を見つめる。
王は書斎の重厚な机に肘をつき、深く息をついた。兵士を切り殺した事件の報告を繰り返し読み返す度に、胸の内が締めつけられるようだった。
もし、これが外部に漏れれば、王家の威信は地に堕ちるだろう──いや、それ以上に、王家そのものの正当性が問われかねない。
──我が子であり、王国の未来を託すはずの者が、民を手にかけた。その現実が、心に重くのしかかる。
「王子とはいえ、命を奪う行為は看過できぬ……」
声は低く、微かにかすれていた。
まるで自らの決断を恐れているかのように。
側近たちが静かに見守る中、王はゆっくりと言葉を紡いだ。
「この事件の重さを鑑み、第一王子には無期限の幽閉を命ずる。王子としての資格を失わせるわけではないが、王国の安寧のため、まずは内省と反省の期間とせよ……」
その言葉は、王家を守るという強い意志の裏に、どうしようもない孤独と哀しみを滲ませていた。
宰相もまた、王の胸中を察し、静かに頷いた。
「また、教育官による更なる指導と監督を強化し、外部との接触も徹底的に制限いたします」
重苦しい沈黙が執務室を満たす中、王は誰にも見せぬように、そっと拳を握り締めた。
それは、王としての義務と、父としての慟哭を押し殺すかのように。
この決断は、王国の将来を見据えた苦渋のものだった。臣下たちもその重さを理解し、静かに従った。
──だが、その決定は、第一王子の反発と混乱をより一層深め、やがて王家をさらに大きな混乱へと導くことになるのは、誰の目にも明らかだった。
◆
数日後。王宮の執務室では、王と宰相が再び王子の行く末について協議を続けていた。
「教育官の報告によると、王子の態度は少しも軟化しておりません。むしろ、かつてないほどの傲慢さと反発心が表面化しております」
宰相は重い口調で告げる。
「このままでは国の秩序を乱しかねません。さらなる措置を検討せねばなりません」
王は深く息を吐き、決断の重みをかみしめる。
「王子としての責務を果たせる日が来るまで、我々は耐えねばならぬ。しかし、その間に国が乱れてはならぬのだ」
この言葉には、父として、王としての複雑な思いが込められていた。
王宮の執務室。重厚な扉の奥、沈黙の中に王の低く重い声が響いた。
「……これ以上猶予はならん。ラグナルに、己の限界と、王子としての自覚を持たせるのだ。ただし、これが本当に最後の機会だ」
「しかし、どのようにして……?」
王の視線は窓の向こう、遠くの空を捉えていた。どこか哀しげで、決意に満ちている。
「彼に教えられる者は──レオンしかおるまい」
宰相が頷いた。
「なるほど……彼ならば、王子殿下の傲慢を打ち砕けるかもしれませぬ。あれは王子の傲慢を映す鏡、そして超えねばならぬ存在にございます」
王は静かに、頷いた。
「レオンを呼べ。余から直接、頼む」
◆
数刻後、執務室に招かれたレオンは、王と宰相の言葉を静かに聞いていた。
王子の暴走、殺人事件、荒療治の失敗……そして、再教育の最後の希望としての自身の役割。
ひとしきり説明を受けた後、レオンはふっと鼻で笑うような、乾いた息を吐いた。
(まったく……困った親子だな)
視線の先にいる王を一瞥し、心中で呆れ交じりの皮肉が浮かぶ。
(今度は息子の尻拭い……。こいつは自分の跡継ぎの教育もせず、いったい何をやってきたんだ?)
だが、それを表には出さず、しばらく黙考した。
そのまま、沈黙が落ちる。
執務室の空気がわずかに張り詰める中、王と宰相は互いに目を交わすこともなく、ただレオンの返答を待っていた。
沈黙が長引くにつれ、王の指先が机上の報告書の端を無意識に弄り始め、宰相もまたわずかに喉を鳴らした。
レオンが何を考えているのか──あるいは、どう判断しようとしているのか。二人には、まったく読めなかった。
そして、しばらくの沈黙ののち、レオンはゆっくりと顔を上げた。
「つまり、俺に……あの王子殿下の更生を……?」
口にした言葉は確認のようであり、既に覚悟を決めた者のそれでもあった。
再び執務室に静寂が落ちる。レオンは目を伏せたまま思案の末、ゆっくりと顔を上げた。
そして──
「……わかりました。命じられた以上、やるべきことをやるだけです。ただし……やり方は俺に任せてもらいます。そして、期限を区切らせてください。それから……結果は保証できません。それでもよければ、引き受けましょう」
その声音は、静かで淡々としていた。
だがその底には、氷のような冷ややかな決意が滲んでいた。
レオンの覚悟は、怒りでも情でもなく──徹底した冷徹さの中にあった。
王はその言葉に、一瞬だけ目を細め、わずかに息を呑んだ。
内心、レオンがどこまで踏み込むのか、想像がつかず、不安が過る。
──だが、他に道はない。
王はゆっくりと頷いた。重みを噛み締めるように、慎重に言葉を紡ぐ。
「……よかろう。すべて任せる。お前の判断に、余は口を挟まぬ。ただし──お前自身の身は、くれぐれも大切にせよ」
王の声には、わずかな哀しみと、王としての覚悟が交錯していた。
レオンは淡々と一礼し、短く答えた。
「私の身なら全く問題ありません」
──その背中は、王家の誰よりも冷静で、そして誰よりも孤独に見えた。
◆
翌朝。王宮の訓練場に、レオンの足音が静かに響く。
重く閉ざされた扉の向こう、幽閉されていた第一王子ラグナルが待っていた。かつてとは違う、やつれた姿。しかしその眼光だけは、かえって鋭さを増していた。
「……貴様か。俺に剣を教えるだと? 馬鹿馬鹿しい。何のつもりだ、レオン」
レオンは答えず、訓練用の剣を手に取り、具合を確認する。
「別に教える気はない。ただ、お前がどこまでやれるか、それを見に来ただけだ」
その言葉に、ラグナルの顔が歪む。
「見下すなよ……! 俺は王子だ! お前ごときに──!」
叫びとともに、剣が振るわれる。だがレオンは一歩も動かず、軽く受け流した。
「──さてと、始めるとするか」
訓練場の空気が、一気に張り詰めた。




